第4章
笹谷幽々子は全身をびくりと震わせ、次の瞬間には、にわかに怯えた顔へと切り替えた。
床に散らばった珠など見えていないふりをして、わざと一粒踏み――江原翼のほうへよろめく。
「あっ……」
怯えでいっぱいの声。
江原翼が手を上げるより早く、笹谷幽々子はそのまま男の胸に倒れ込んだ。
彼女はわずかに顔を上げる。目元はすでに赤く、泣き出しそうなまま、しおらしく訴えた。
「翼……さっき、アヤメ先生にお祖母さんを助けてほしくてお願いしたの。でも断られて、それどころか辱められて、手まで上げられたの。避けたら……その拍子に先生のブレスレットを引っかけちゃって……」
嗚咽を混ぜ、悔しさをにじませ、弱くて可哀想な被害者を完璧に演じる。
床に散った珊瑚の珠。
そしてその言葉。
水宮雪音の頭の中で、どん、と何かが爆ぜた。
振り向きざま、手が上がる。乾いた音が控室に響いた。
ぱんっ。
「笹谷さん。事実を説明する能力がないなら、どこかで文章の組み立てから学び直したらどうです?」
五年という時間は、水宮雪音に血肉を取り戻させた。
江原翼の胸の中で固まったままの笹谷幽々子を冷たく見下ろす。瞳の奥を、鋭い憎しみが走った。
「……っ! 翼、見たでしょ! あの女、私を殴った!」
笹谷幽々子は頬を押さえ、感情を露わに叫ぶ。殴り返したいのを必死で抑えながら、水宮雪音を怨毒で睨みつけた。
江原翼は眉をわずかに寄せ、アヤメへ視線を向ける。目尻のあたりで一瞬だけ止まり――すぐに笹谷幽々子へ戻した。彼女の身体を起こし、低い声で告げる。
「騒ぐな。まだ用がある」
声は軽い。だが拒否は許さない圧がある。
笹谷幽々子は、江原翼の機嫌と温度を読み違えない。怒りを押し込み、唇を噛んで大人しく立ち直った。
江原翼は水宮雪音へ、少し声量を上げる。
「ブレスレットの件は悪かった。故意じゃない」
そう言うと、軽く首を傾けて助理へ命じた。
「影山。形を覚えろ。同じものを必ず用意して、アヤメ医師に弁償しろ」
影山は慌てて頷く。
水宮雪音が返事をする前に、江原翼は淡々と続けた。
「アヤメ医師。祖母の手術は君に執刀してもらう。金でも条件でも、好きに言え。江原家が叶えられるものは、必ず叶える」
「……ふふ」
水宮雪音は薄く笑っただけで、江原翼の言葉を無視し、床に散った珠を一粒ずつ拾い始めた。
珠が触れ合う、かすかな音だけが続く。
控室は、針が落ちる音さえ聞こえそうな静けさに沈んだ。
院長も影山も、何度も水宮雪音を盗み見する。院長は額の汗をそっと拭った。まさに神様同士の喧嘩だ。巻き込まれる側はたまったものじゃない。
できることなら、院長はアヤメの代わりに頷いてやりたい。内心で「お願いします、お願いですから」と何度も唱えながら、拾う手を手伝った。
最後の一粒まで拾い終え、水宮雪音が顔を上げる。
「すみません。手術はお受けできません」
再度の拒否に、笹谷幽々子は待ってましたとばかりに噴き上がった。
「アヤメ、調子に乗らないで。少し腕が立つからって、上から目線で偉そうに。あなたより優れた医者なんていくらでもいるわ」
そして江原翼へ向き直り、憤懣やるかたない声でまくし立てる。
「翼、医者はこの人だけじゃない。こんな傲慢な性格、腕だって噂ほどじゃないはずよ」
「ネットの情報なんて当てにならない。どうせ盛ってるのよ」
「無能なうえに医徳もない偽物なんて、封殺されるべきだわ」
「私たち、いいことしたと思って――今日ここで正体を暴いてやりましょ」
数言で、水宮雪音を詐欺師に仕立て上げようとする。
アヤメは一切動じない。
だが院長は眉をひそめた。
「江原奥様、アヤメ医師の実力は周知です。手術映像は医学院の教材にもなっています」
冗談じゃない。これは自分が必死に連れ戻した看板医師だ。江原家が相手でも、ここだけは引けない。
院長は笹谷幽々子の刺すような視線を受けながらも、へりくだって言葉を継いだ。
「……当院の誇りでして」
「あなた……!」
笹谷幽々子は歯ぎしりする。
「もういい」
江原翼が低く遮った。
「幽々子。アヤメ医師に謝れ。医術を疑うのは間違いだ」
江原翼はアヤメの手術映像も、関連する大型症例も、すべて目を通している。門外漢でも分かる。あれは並の技術じゃない。
江原翼はアヤメへ向き直り、視線を逸らさず言い切った。
「祖母の手術は、何があっても君にやってもらう」
そして、淡々と――だが刃のように言葉を落とす。
「拒否は自由だ。ただし、結果を君が背負えるとは限らない」
「信じないなら、拒むなら、やってみろ」
「誰にでも……守りたい人はいる」
優しく説得する道は捨てた。
江原翼は冷えた声音で締めくくる。
「アヤメ医師は賢い。考え直すはずだ。手術の成功を祈っている」
言い終えると同時に背を向け、出ていった。
笹谷幽々子は鼻で笑い、その後を追う。
控室に残ったのは、院長と水宮雪音だけ。
水宮雪音の顔色は最悪だった。
院長も同じく、ため息を吐いて口を開きかけ――水宮雪音のほうが先に言い放つ。
「疲れました。休みます」
それだけ告げて、出ていった。
江原翼の言葉が、巨石みたいに胸へ沈む。
子どもは彼女の命。
江原翼は、脅しを口にするだけの男じゃない。
冷酷で、容赦がなく、やると決めたらやる。
悪い形容なら、いくらでも当てはまる。
二人が見つかる――その想像だけで、指先が冷える。
控室へ戻る道中、水宮雪音は全身がぶるぶる震え、こめかみに汗がにじんだ。
――
江原翼が笹谷幽々子を連れて専用控室へ戻ったとき、視線が机のネームプレートに吸い寄せられた。
江原翼は目を細める。
「影山。誰がここに入った」
この部屋は彼専用。許可なく入れる者はいない。
数歩遅れていた影山の心臓が、ひゅっと縮む。慌てて視線を追うと――
「江原翼」と書かれた名札に、きっちりと書き足されていた。
ばか
さらにもう一枚、立て札の裏には勢い任せの文字と、でかい亀が二匹。
影山は血の気が引いた。
どこの悪ガキだ――終わった。
「どこかの子どもが部屋を間違えたのかと……」
言い訳しかけた瞬間、江原翼の視線が刺さり、影山は口を閉じた。
「監視カメラを確認します」
それだけ言い残し、影山は逃げるように出ていった。
――案の定、子どもの仕業。
しかも一人ではなく二人。
迷い込んだのではなく、狙ってやっていた。
隣の低気圧に耐えながら、影山が口を開こうとした、そのとき。
「はははっ、亀に緑ぬるー! それから……」
鈴のような笑い声が、ふっと途切れた。
穹が絵筆を片手にドアを押し開け、目を丸くしたまま固まっていた。
