第5章

「うわっ! お兄ちゃん、たすけて!」

穹が先に我に返った。手にしていた絵筆をぽいっと放り投げ、くるりと踵を返して駆けだす。

走りながら、堪えきれずに叫んだ。

「逃げるな、小ガキ!」

影山はびくりと肩を震わせ、慌てて追いかける。

ここでこのガキを目の前から取り逃がしたら――江原翼に皮を剥がされる。

穹は背後を振り返り、ぐんぐん迫ってくる影山に顔を引きつらせた。細い腕と脚を必死に動かし、さらに速度を上げる。

捕まったら終わりだ。

ママにバレたら、お尻が割れる。

――トイレを出て、手を洗おうとしていた悠人の耳に、妹の悲鳴がかすかに届いた。

眉をひそめ、ぽつりと呟く。

「……まだ絵筆、見つからなかったの? 持ってきたはずだろ」

穹は絵を描くのが大好きで、絵筆はどこへ行くにも持ち歩く。

さっき亀を描いたあと、どうにも物足りなくて、二人で考え込んだ末に「色がない」と気づいた。

そのまま休憩室へ取りに戻ろう――そう意見が一致した。

けれど悠人は、どうしてもトイレに行きたくなった。だから穹だけ先に取りに行かせ、自分はあとで江原翼の休憩室へ向かうつもりだった。

疑問だらけでも、手を洗う手は止まらない。

洗い終えて廊下へ出た、その瞬間だった。

穹がこちらへ向かって全力で駆けてくる。

悠人が声をかけようとした矢先――穹の背後から男がぬっと飛び出し、電光石火で穹を掴み上げた。

「逃げたな! ……おいおい、小せえくせにやるじゃねぇか!」

影山は荒い息を吐きながら、腕の中でばたばた暴れる穹を押さえつける。

「動くな。ほら、白状しろ。共犯はどこだ?」

「お前ら二人とも、毛も生えそろってねぇくせに悪さしやがって!」

ぶつぶつ文句を垂れつつ、手加減は一切なし。

ただでさえ怖いのに、息を切らした大人に乱暴に掴まれて、穹の胸は限界だった。顔をくしゃくしゃにして、わっと泣き出す。

悠人は、妹がこんな泣き方をするのを見たことがない。頭が真っ白になり、弾丸みたいに飛び出した。

無防備な影山の脇腹へ、渾身の蹴り。

「ぐっ……!」

影山がよろめき、抱えていた穹を落としそうになる。

振り返った影山の脚に、次の瞬間、悠人がしがみついた。

「妹を放せ! この大悪党! 放さないなら蹴るぞ!」

言うだけじゃない。

一発、二発、容赦なく蹴り込む。

「おい、誰か……手伝え……っ、痛ぇ……!」

廊下は一気に騒然となった。

――

VIP休憩室。

泣き声が途切れない。

江原翼は片肘をつき、もう片方の手を膝に置いたまま、指先でトントンと一定のリズムを刻む。

目の前の二人を、面白がるように眺めていた。

片方が大声で泣けば、片方は小さく泣く。

疲れたら交代。泣き声が止まらないよう、妙に連携がいい。

悠人は泣いて騒げば江原翼がうんざりして追い出してくれると思っていた。だが逆だった。江原翼の興味を引いてしまった。

泣き続けるのは体力がいる。

そのうち穹が泣ききれなくなり、悠人の服の裾をくいくい引っ張った。

悠人がちらりと見る。妹の目は真っ赤だ。

歯を食いしばり、悠人は泣くのをやめた。

「……ごめんなさい、おじさん。ボクたち、悪かった」

きっぱり頭を下げる。心の中では江原翼を罵倒し続けながら。

穹は黙ったまま、兄の服をぎゅっと握り、唇をむっと尖らせる。

子どもの目は嘘をつけない。

二人の視線には、言葉にしない罵りがありありと浮かんでいた。

江原翼は眉を上げ、近いほう――穹へ手を伸ばす。

穹がびくっと後ずさる。悠人が即座に前へ出て、穹を背にかばった。

「妹に触るな、大悪党!」

江原翼は悠人を無視し、穹の腕を引いて自分の胸へ抱き寄せた。

視線が穹の膝に落ちる。薄汚れた擦り傷がくっきり残っている。転んだばかりだろう。

影山は目を丸くした。

江原翼は子どもが嫌いだ。まして、汚れた子どもなんて。

泣いたせいで顔もぐちゃぐちゃで、汚れているはずなのに。

それでも江原翼は気にした様子もなく、穹を抱いたままだった。

穹は抱え上げられた瞬間、思考が止まった。

……パパ。

まだ幼い身体と心は、「父親」という存在を欲しがってしまう。

悠人は顔を真っ赤にして叫ぶ。

「放せ! 妹を放せよ!」

悠人が飛びかかり、江原翼の胸にどん、とぶつかって弾かれた。

目を見開き、硬直する。

江原翼の胸にも、説明のつかない感覚が走った。

その場で死にたくなったのは影山だけだった。

「調べろ。こいつらが誰の子か」

江原翼の低い命令に、影山はようやく息をつき、すぐさま電話をかけて手配した。

――

一方、専用休憩室。

水宮雪音は、ひとりで氷室に取り残されたみたいに立ち尽くしていた。

室内は空っぽ。誰もいない。

胸がひゅっと縮み、心臓が跳ね上がる。

焦りが喉を締めつけ、こめかみに汗がじわりと滲んだ。

あの二人は、昔から自分の考えを持っている。

そして、江原翼が父親だと知っている。

自分を守ろうとして、しかも小賢しい。

――まさか、仕返しに行ったんじゃ。

考えたくないのに、想像が勝手に膨らむ。

雪音は大きく息を吸い、すぐに七海へ電話をかけた。

七海が駆け込んでくるなり、雪音の顔色を見て息を呑む。

「アヤメ姐、どうしたの?」

「七海……悠人と穹がいないの。いない……!」

雪音は目を赤くし、七海に支えられて立ち上がる。

七海も青ざめた。あの二人は、雪音の命そのものだ。

「アヤメ姐、落ち着いて。廊下も部屋も監視カメラがある。映像を見よう」

「それに腕時計。位置情報、あるはず」

その一言で雪音ははっとする。

震える手でスマホを取り出し、追跡アプリを開いた。

「ほら、アヤメ姐。赤い点が二つ……」

「南東に……300mくらい……監視室はどこ?」

「このフロアの突き当たり」

七海は雪音を支えながら、監視室へ急いだ。

南東側の部屋番号を確認し、そこに表示された名前を見た瞬間――雪音の顔が固まる。

江原翼。

どうして。

どうして、こんなに早く。

「アヤメ姐、大丈夫?」

七海が慌てて支える。

「江原様の休憩室なら……子どもは無事よ。いなくなったりしない」

七海は、江原翼がどういう男か知っている。

「今から迎えに行こう。二人を連れて帰ろう」

雪音はしばらく言葉を探し、ようやく声を絞り出した。

次の瞬間、七海の手首を強く掴む。

「……違う。あなたが行って」

「七海、私……今は江原翼に会えない!」

会いたくない。

見破られるのが怖い。

五年かけて、ようやく立ち直ったのに。

「お願い。七海、二人を……連れてきて」

雪音は、行けなかった。

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