第6章
「江原様。あの子ども二人は、ある女性が会場に連れて入っていました。女性は終始マスクを着用しており、身元の特定はできません」
会場で顔を出していた女性は片っ端から照合したが、該当者なし。
報告を終え、影山はおそるおそる江原翼を見上げた。
――むしろ、会場の誰よりも。
あの二人、江原翼に似ている気がしてならない。とくに目だ。
まるで写し鏡みたいに。
もし今ここで、どこかの女が飛び出してきて「この子たちは江原翼の隠し子です」と言い張ったら、影山は六割くらい信じてしまうだろう。
「……それが、お前の出した答えか」
しばらくの沈黙のあと、江原翼が低く言った。
怒っているわけでもないのに、言葉だけで空気が締まる。
隣に座る穹が、その圧に耐えきれず小さく震えた。
悠人がすぐ小さな手で妹の背中をとんとん叩く。
「穹、怖がるな。兄ちゃんがいる」
わざと抑えた声でも、江原翼の耳には届く。
江原翼は眉をひそめた。
――肝っ玉が据わっているはずの二人が、怖がる?
「調査範囲は拡大しています。追加の人員も動かしました」
影山は頭を下げたまま答える。
「二人は下の階の来賓用控室フロアから出てきて――」
「悠人! 穹!」
遠くから切羽詰まった声が飛び、影山の報告を遮った。
七海が風みたいに飛び込んできた。開いた扉の隙間をすり抜け、そのまま一直線に二人へ駆け寄る。
「な……」
穹がぱっと目を輝かせ、呼びかけようとした、その瞬間。
七海は一歩で距離を詰め、穹をきつく抱きしめた。
「もう、穹! 本当にママ、心臓止まるかと思った! 今日は会場にいろんな人がいるんだから、何かあったらどうするの!」
水宮雪音に言い含められていたとおり、七海はわざと声を張り上げ、穹が言いかけた言葉を丸ごと押し潰した。
悠人にも同じ調子で畳みかける。
「悠人も! あなたたち、本当にママを怖がらせないで!」
言い終えた七海の目元が、みるみる赤くなる。
二人を抱えたまま、こらえきれずに泣き出してしまった。
……なんで後始末まで私なの。
「ママ、ごめんなさい」
悠人は頭の回転が速い。状況を一瞬で理解し、完璧に合わせた。
二人は口々に謝りながら七海の胸にしがみつき、影山が口を挟もうとするたびタイミングを奪う。
このまま有耶無耶にして連れ出す――七海はそうするつもりだった。
だが。
江原翼の視線が、すでに七海を捉えていた。
背中に針を刺されたみたいにぞわりとする。
七海は深く息を吸い、振り返って立ち止まる。
そして江原翼に向かって深く頭を下げた。
「江原さん、子どもたちを見てくださってありがとうございます。もし二人が度を越したことをしていたなら、保護者として私が責任を取ります」
返事がない。
七海は不安になり、思わず影山へ視線を投げた。
影山はこめかみを押さえたい顔をしている。
七海は構わず悠人の服を軽く引いた。悠人もさっと頭を下げる。穹も空気を読み、同じようにぺこり。
全員そろって頭は下げているのに、小さな動きだけはやたら揃っている――そんな光景を眺め、江原翼はふっと興が削がれた。
「出ていけ」
低く、鋭い叱責。
七海の謝罪はそこでぷつりと途切れた。慌てて兄妹の手を引き、逃げるように部屋を出る。
かなり離れてから、七海はようやく息を吐いた。
「あなたたち、なんであそこに行ったの! あの人が誰か分かってる? 怒らせたら、誰も助けてくれないよ!」
江原翼の名は知れ渡っている。
江原家はこの国の中心に食い込む家柄で、財も力も持ち合わせた、逆らう相手じゃない。
悠人は唇を結び、眉を寄せたまま七海の手を引く。
「七海おばさん、ママは? ママ、今大丈夫?」
江原翼のことなど眼中にない。悠人が気にしているのは水宮雪音だけだ。
「ママ、きっと僕らがいないって気づいてる」
穹も目を赤くして、ぽつりと言う。
「お兄ちゃん……ママ、怒ってるかな……」
悠人の小さな肩が、すとんと落ちた。歩幅まで重たくなる。
「七海おばさん、早く戻ろう。ママが心配する」
七海は苦笑するしかなかった。
余計な小言は飲み込み、二人と一緒に歩みを速めた。
――
VIP控室の空気は、底冷えしていた。
あの子どもたちが去ってから、凍りつくような沈黙が続いている。
「江原様。グループ会議まで一時間です。今出発しないと――車はすでに下に回してあります」
影山は胃に穴が開きそうな圧を受けながら、予定を必死に口にした。
――
一方。
悠人と穹は左右から水宮雪音の腕にしがみつき、真っ赤な目で謝り続けていた。
計画を立てていたときは強気だったのに、今は水宮雪音の血の気の引いた顔色を見て、ようやく本当に怖くなったのだ。
さっきの芝居じみた泣き方とは違う。今は胸が裂けるほど泣いている。
「アヤメ姉さん、今回は許してあげようよ」
七海が、珍しく弱い声で言った。
水宮雪音も、恐怖から立ち直ったあと二人を見れば、もう心が折れていた。
七海が差し出したその台を借り、ゆっくり息を吐く。
「……帰ろう。まずは家に」
帰ってから、ちゃんと話そう。
水宮雪音はそう決めた。
――
江原翼が車に乗り込み、出発しようとした。
ふと視線を上げた、その瞬間――身体が固まる。
影山も異変に気づき、同じ方向を追って目を見開いた。
……奥様。
唾を飲み、声をかけようとした、その時にはもう遅い。
江原翼は車を降り、さっきまでの冷たさをかなぐり捨てて走り出していた。
追われる女は気づく様子もなく、道端に停められたストレッチリムジンへ淡々と乗り込む。
そのまま走り去った。
江原翼はその場に立ち尽くし、やがて表情を冷たく戻す。
「調べろ。ナンバーは東京か***39」
影山はようやく追いつき、荒い息のまま電話をかけて手配を飛ばした。
――
街に灯がともり、それでも車の流れは途切れない。
江原翼は高層ビルの窓辺に立ち、墨を流したような瞳で影山の報告を聞いていた。
「江原様。車両の名義人は笹谷基治という男性です。登録は今年4月。こちらに来たのも今年で、医療機器関連の小さな会社を所有しています」
影山は資料を差し出しながら続ける。
「当該車両の使用状況と、名義人の交友関係を洗いました。内容はすべて資料にまとめています」
言葉が進むほど、影山の心臓が縮む。結局、核心に近づけていない。
江原翼は資料に目もくれず、一直線に訊いた。
「水宮雪音か」
五年前、あの事故のあと。
水宮雪音は跡形もなく消えた。
影山は口元を引きつらせ、重く答える。
「……違います」
自分だって、そうであってほしかった。
この五年が、どれほど地獄だったか――。
江原翼は金も人も時間も惜しまず、ただ一つの目的だけを追い続けてきた。
水宮雪音を見つけること。
だが彼女は、まるで空気に溶けたように、何ひとつ痕跡を残さないままだった。
