第7章

「林原先生、ゴホッ……すみませんね、少しだけお時間をいただけますか」

病室のベッドで、銀髪の老婦人が枕を高くし、弱々しく笑った。

「検査結果は、もう出ているでしょう? ……あまり良くないんでしょうね」

その一言で、林原の顔色が沈む。

「山原奥様、お身体は……」

この話題を口にした瞬間、林原自身の表情もまた硬くなった。

「自分の身体のことは、自分が一番分かっています。人はね、誰だっていずれ死ぬものよ」

山原奥様は窓の外へ、どこか寂しげに視線を流す。

「それでも私が、ここまで前向きに治療に付き合っているのは……翼が心配だから」

「……あの子は幸せじゃない。私には分かるの」

――江原家は、人を食う。

それはこの界隈では、誰もが認める事実だった。

山原奥様は当初、娘を江原家に嫁がせたくなかった。江原家の血を引く江原翼のことさえ、好きではなかった。翼が十歳になるまで、山原家の敷居を跨いだこともない。

――江原の母が亡くなるまでは。

窓から差し込む光は眩しいのに、山原奥様の目の潤みだけは拭えなかった。

冠を戴くなら、代償を払わねばならない。

江原翼が江原家の頂点に立つために、何を捨ててきたのか。山原奥様は、ずっと見てきた。

「私の検査結果を、あの子に正直に言わないでちょうだい。……一度だけでいいの。騙して」

「江原はいま、ひどく揺れている。翼に余計な負担を背負わせたくないのよ。あの子は、疲れても口にしない。胸の奥に押し込んで、いつか潰れてしまう」

山原奥様は林原をまっすぐ見据えた。

「お願い。今回だけ」

報告書を見なくても分かる。悪化している。

「もし顔色で勘づかれそうなら、薬を増やしてもいいわ。耐えられるもの」

標的薬は通常量でも負担が大きい。増量など、なおさらだ。

「山原奥様……」

「止めないで、林原先生。私の身体のことは分かってる」

声は低い。けれど、言葉の芯は折れない。

「翼のこと、頼むわ。この時期に、余計な悩みを増やさないで」

「……ここ最近くらいなら、この老いぼれた身体も、まだ持つでしょう」

林原は眉をひそめ、やがて吐息に変えた。

「……分かりました。言い方には配慮します」

肩を落とし、病室を出る。その足取りは重かった。

扉を出た直後、林原の歩みがぴたりと止まる。

正面に影山が立っていた。

「林原先生。江原様がオフィスでお待ちです」

「検査報告はすでに江原様がご覧になっています。医師としての所見を」

影山の口調は相変わらず淡々としている。だからこそ、林原は苦笑するしかなかった。

振り返って閉まった病室の扉を見つめ、ひとつ息を吐いてから、影山の後を追った。

――

「……言い換えるなら、山原奥様の病状は待てません。先延ばしにすれば……」

最後まで言わずとも、誰もが理解した。

「手術は今が最後のタイミングです。ここを逃せば、老夫人は……」

オフィスの空気が凍りつく。

林原は心の中で何度も溜息をついた。まさか江原翼が、自分より先に検査報告を手にしているとは。

隠せるはずもない。林原は腹を括り、正直に告げた。

「……ほかに方法はないのか。別の医師は。誰か、できる者はいないのか」

江原翼は水底のような顔で、報告書を握る指に力を込めた。

林原は重く首を横に振る。

「この手術は、難易度が異常です。国内外で適任は三人だけ」

「一人はドクター笹谷。ただ、数年前の交通事故で手を傷め、もうメスを握れません」

「二人目は北欧の医師、休。伝説はいくつもありますが……何より所在が掴めない。いるようで、いない。追うほど霞む」

「そして三人目が、今、国際的に最も名の通ったアヤメ医師です。現在、T市にいます」

そこで林原は江原翼をちらりと見た。授賞式の日のことは知っている。翼はアヤメに当たった――だが、結果は出なかった。

林原は静かに息を吐く。

「……もう一度、アヤメ医師を探すしかありません」

――

医師のオフィスを出た江原翼は、祖母の病室へ向かった。だが扉の前で足を止める。

林原の言葉が頭に残り、やめていた煙草を取り出した。

一本吸い終え、匂いが落ちるまで待ってから、表情を整えて病室に入る。

祖母が知られたくないなら、知らないふりをする。

しかし病室を出た瞬間、江原翼の柔らかさは消えた。

「江原様。アヤメ医師の住所が判明しました。南山区のアトランティス別荘区です」

アトランティス別荘区は江原が投資・開発した高級住宅地で、権力者が集う場所として知られている。

「アトランティスへ」

一刻も早くアヤメに会いたい。車は風を切って走った。

到着すると、別荘区の責任者が迎えに出て、息継ぎもなく説明を始める。江原翼の表情は氷のまま。影山が間に入り、手短に調整する。

一行が歩みを進めた、その別の道――。

水宮雪音はスーパーの袋を提げ、電話越しの子どもたちに細かく言い聞かせていた。二人はよく喋る。ひっきりなしに、楽しそうに。

雪音も笑って聞き入り、周囲への注意が薄れていた。

角を曲がった瞬間――

どんっ。

誰かとぶつかった。スマホが手から滑り落ちる。

「……っ!」

小さく声を漏らし、拾おうと屈んだ、その次の瞬間。

江原翼は眉を寄せて立ち去ろうとした――はずが、屈んだ彼女の腕を乱暴に掴み、ぐいと引き起こした。

目を細め、声を凍らせる。

「水宮雪音」

一音ずつ、確かめるように。

水宮雪音の身体が震えた。逃げようとしても、手首は鉄のように固定される。

「また逃げる気か」

雪音の抵抗に気づいた途端、江原翼の顔色が変わる。

「消えて、何年だ。今度はどこへ行くつもりだ」

本来の目的など、頭から抜け落ちた。どこから湧いたのか分からない怒りが、胸いっぱいに広がっていく。

その眼差しには激怒と衝撃――そして、本人も気づかない微かな喜びまで混じっていた。

「放して、江原翼!」

水宮雪音は、何に怯えているのかさえ整理できないまま、ただ離れたかった。否定する余裕もなく、口から出たのはそれだけだった。

「私たちはもう関係ない! 放して!」

「関係ない? ……笑わせる」

江原翼は低く嗤う。

「俺たちは今も、法律上は夫婦だ」

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