第3章 彼女はまだ菅田美波なのか?
「黙れ。私が喋っていいって言った?」
二人の顔色が一瞬で変わるのを眺め、菅田汐里はそのまま菅田雨子へ視線を移し、氷みたいな声で突きつけた。
「それに、昨日『体育準備室に来て』ってメッセージ送ってきたの、あんたでしょ?」
言い終えると、今度は高木寧音たちへ。嘲りを隠しもせず鼻で笑う。
「ほんと……あんたら、救いようがないほど馬鹿ね。利用されてるのに気づきもしないなんて」
高木寧音たちが、はじかれたように菅田雨子を振り向いた。そこに浮かぶのは、弄ばれた怒りと疑念。
「木村先生! 菅田雨子が言ったんです! 菅田美波が加藤浩史にベタベタして気持ち悪い、恥知らずだって。だから懲らしめろって!」
「鍵かけるのも、あいつが示唆したんです! 閉じ込めたら大人しくなるって!」
「私たち、呼び出して文句言うだけのつもりで……!」
「そう! 全部あいつ!」
口々に、あっさり寝返った。
彼女たちだって馬鹿じゃない。菅田雨子が全部の責任を自分たちに押しつけようとしているのは、さすがに分かる。冤罪の肩代わりなんて、する義理はない。
「ふざけないで!」
菅田美幸が顔色を変え、甲高い声を張り上げた。
「うちの雨子がそんなことするはずないでしょ! あなたたちが勝手にいじめたくせに、うちの子まで巻き込もうとして! 木村先生、これは悪質なでっち上げです!」
菅田雨子も瞬時に目を潤ませ、嗚咽混じりに訴える。
「ち……違う、私じゃない……美波、信じて……! 高木寧音、なんでそんなひどいこと言うの……!」
一気に騒然となった。
菅田汐里はその騒ぎを冷ややかに眺め、ぽつりと口を開く。
「木村先生。校則で、いじめはどう処分されるんですか?」
一拍置いて、目つきの悪くなった高木寧音たちへ、そして動揺を隠しきれない菅田美幸と菅田雨子へと視線を巡らせる。
「誰が私を呼び出したかなんて、スマホの履歴を見れば終わりですよね」
口元だけ、ほんの少し弧を描く。けれど眼は冷え切っていた。
「今どき、消しても復元できる。そういう時代ですから」
菅田雨子の顔から、血の気がさっと引いた。
木村芽衣はその一連の言葉に追い詰められ、額に汗を浮かべながら口ごもる。
「す、菅田美波さん……体調が悪いなら、今日は一度帰って休みなさい」
声の調子を整え、なだめるように続けた。
「学校として必ず調査します。きちんと説明もしますから」
それから高木寧音たちへ鋭く言い放つ。
「高木寧音、あなたたち。それと菅田雨子も。全員、教務課へ。経緯を全部書きなさい」
菅田美幸が何か言いかけたが、木村芽衣は露骨に苛立った仕草で手を振り、退室を促した。
菅田美幸は言い返せず、代わりに菅田汐里を恨めしげに睨む。
菅田汐里はその視線を真っ向から受け止め、口元だけを引いた。笑っているようで、笑っていない。
宣戦布告。
菅田美幸の胸がどくんと跳ね、背筋を冷たいものが走った。獣に狙われたみたいな悪寒に耐えきれず、慌てて顔を背け、娘の腕を掴んで足早に立ち去る。
その背中を見送りながら、菅田汐里の笑みがゆっくりと膨らんでいった。
まずは、利息分。
本番は――ここから。
菅田汐里は校門前の薬局で解熱剤と抗炎症薬を買い、記憶を頼りに菅田家の別荘へ戻った。
別荘の中はがらんとしていて、生活の匂いがしない。静けさが、やけに冷たい。
二階のいちばん端にある小さな部屋へ入る。狭い室内には安物のぬいぐるみとピンクの飾りがこれでもかと詰め込まれ、幼稚で下品な「姫部屋」になっていた。菅田美幸が、元の持ち主のために用意した檻。
今はそれどころじゃない。薬を飲むなり、菅田汐里はベッドへ倒れ込んだ。
この身体には、徹底的な休息が必要だった。
どれほど眠ったのか。
すすり泣き声で目が覚めた。
菅田汐里は瞼を持ち上げる。苛立ちを孕んだ冷たい眼で聞き分けた。菅田美幸と菅田雨子の声だ。
毛布を跳ねのけ、裸足でひやりとした床へ降りる。足音を殺し、扉の前へ。わずかに隙間を作って覗いた。
一階のリビング。父の菅田英樹が主座で怒り顔を作っている。菅田美幸はハンカチで涙を拭い、菅田雨子は母に寄り添って目を腫らし、可哀想な娘を演じていた。
そして一人掛けのソファには、白いシャツの少年。
姿勢がよく、眉目が整い、表情は薄い。まるで芝居を眺めるだけの観客みたいに。
菅田汐里は一瞬だけ目を細めた。
加藤浩史。
元の持ち主とは幼なじみで、母親同士が仲のいい友人。子どもの頃には冗談半分で許嫁みたいな話まで出た。
けれど歳を重ねるにつれ、加藤浩史は眩しいほど優秀になっていき、彼女のほうは毒と菅田美幸の「放任」で肥満と醜さに沈み、陰気に縮こまっていった。自卑のせいで、遠くから盗み見るのが精一杯。好きだなんて、胸の奥に押し込めたまま。
「英樹、あなた見てないから……今日の美波、学校でまるで別人よ。何人も殴って、先生の前で雨子を陥れようとして……」
「美波はずっと私たち母娘が嫌いで、私が前の奥さんの場所を奪ったって思ってるの。でも私、ずっと心を込めて接してきたし、雨子だって譲ってばかりだったのに……あんなに憎まれてるなんて……」
すすり泣きが、耳に刺さる。
「お父さん……お姉ちゃん、たぶん気分が悪かっただけ……私は責めないよ……」
菅田汐里の眼に、薄い嘲りが宿った。
よくもまあ、白を黒に塗り替えられる。
菅田英樹の顔色がみるみる悪くなり、ソファの肘掛けをどん、と叩いた。
「反抗期にもほどがある! 毎月あれだけ金を渡して学校へ行かせてるのに、喧嘩と中傷を覚えてくるとは……! 安心しろ、俺がきっちり叩き直して――」
「どう叩き直すの?」
菅田汐里が、低い声で割り込んだ。
全員がはっとして振り向く。
菅田汐里は裸足のまま、階段を一段ずつ降りていく。顔色はまだ悪い。だがその眼だけが異様に冴え、氷の刃みたいにリビングの全員をゆっくり切りつけた。
菅田英樹は、その見たことのない眼に言葉を失い、怒鳴るのを忘れた。
菅田汐里は部屋の中央で立ち止まり、嘲るように言った。
「いつも通り、愛人と私生児に無条件で肩入れして、事情も聞かずに私を罵るつもり?」
加藤浩史の視線が、菅田汐里の背へ吸い寄せられる。妙にまっすぐな背筋。鋭さ。
いつもは猫背で、目も合わせなかったのに――今日は、刺さるほどの存在感だった。
「何を言ってる! 誰が愛人だ! 誰が私生児だ!」
菅田英樹は顔を赤くして立ち上がる。
「美幸は俺の妻だ! 雨子はお前の妹だ!」
菅田汐里は鼻で笑った。
「母の骨も冷えないうちに、この女を家に入れた。愛人じゃないって、誰が信じるの?」
菅田美幸の顔が真っ白になり、唇が震える。
「美波……私のことは何を言われてもいい。でも、お父さんにそんな言い方――」
菅田雨子も泣き声で続ける。
「お姉ちゃん……私のこと嫌いでもいい。でもお母さんは本気でお父さんのこと――」
泣き崩れる母娘を見て、菅田英樹の怒りが臨界を越えた。歯を食いしばり、吐き捨てる。
「もういい! 熱で頭が焼けたか! でたらめを並べて年上を侮辱する気か! 今日は――叩き直してやる!」
勢いのまま、テーブルの重いガラスの灰皿を掴むと、躊躇なく投げつけた。
「英樹、やめて!」
菅田美幸がわざとらしく叫ぶ。目の奥に、ひそかな快楽。
菅田雨子は口を押さえ、恐怖と期待を混ぜた眼。
加藤浩史が反射的に身を乗り出す。だが間に合わない。
灰皿が風を切り、菅田汐里の額へ一直線――。
次の瞬間。
菅田汐里が稲妻みたいに右手を上げ、指を開き、灰皿を正確に掴み取った。
そのまま、五指がゆっくり締まる。
ばき、ばき、と鈍い破裂音。
硬いガラスが掌の中で粉砕され、細かな破片が指の隙間からさらさら落ちた。照明を冷たく反射しながら。
リビングが、死んだように静まり返った。
