第5章 深夜に毒を盛る
菅田美幸も我に返り、菅田英樹のそばへ駆け寄ると、涙をぽろぽろこぼしながらすがりついた。
「英樹、見てよ……この子、家をひっくり返す気よ! 私たちは心配してあげてるのに、あの子は私たちを殺そうとしたの! こんな子、もうこの家に置いておけない!」
母娘は口を揃えて責め立て、菅田美波を悪逆非道の罪人として吊るし上げた。
煽られた菅田英樹の怒りはさらに燃え上がった。振りほどけないまま、喉が裂ける勢いで怒鳴る。
「菅田美波! この親不孝者が! 今すぐ手を放せ! それから跪いて謝れ!」
菅田美波は、途方もない冗談でも聞いたように口端を吊り上げた。嘲るような笑み。
手を放すと、菅田英樹はよろけて二歩下がり、赤くなった手首を押さえながら、驚愕と恐怖の入り混じった目で彼女を見た。
「謝罪?」
菅田美波は視線を菅田美幸へ移し、氷のように言い切る。
「いいよ。解毒剤を出しな。そうしたら……考えてあげる」
言葉と同時に、誰にも悟られぬほど小さく指先を弾いた。極細の白い粉が、菅田英樹を支えて泣きじゃくる菅田美幸の手の甲へ、さらりと乗る。
あまりにも速い。誰も気づかない。
「解毒剤? 何のことよ、知らないわ!」
菅田美幸の瞳が一瞬だけ泳いだ。だが次の瞬間には、被害者の顔で首を振る。
「美波、熱で変なこと言ってるんじゃない? 寝てたから毛布をかけに来ただけよ。どうしてそんな、私を悪者にするの……!」
「毛布をかける?」
菅田美波は冷笑した。
「そのために、加湿器の水をあなた特製の『安神液』に入れ替えるの?」
さらにゆっくりと周囲を見回し、わざとらしいほど穏やかに付け足す。
「私の部屋、監視カメラあるから。24時間ネット接続。さっき何したか、今すぐ再生して――お父さんに見せようか?」
菅田美幸の顔色が、すっと抜けた。
監視カメラ?
いつの間に――あのクズが?
だが菅田英樹は信じない。菅田美波が駄々をこね、理屈をこねているだけだと決めつける。
「もういい、うんざりだ!」
怒気を叩きつけるように叫び、胸を大きく上下させた。
「自分の姿を見ろ! 嘘ばかり並べて年上を貶める! 家族に手を上げる! 俺がどうして……どうしてお前みたいな娘を!」
指を突きつける。
「今日から部屋で反省しろ! どこにも行くな!」
言い捨てると、ベッドサイドに置かれていた菅田美波のスマホをひったくり、そのまま出ていった。外から鍵をかける音が、がちゃりと響く。
「英樹、スマホ……」
菅田美幸が不安げに声を漏らす。
「没収だ! 変な連中とつるんでるからこうなる!」
菅田英樹は怒りを引きずったまま、妻と娘を連れて階下へ降りていった。
部屋に残された菅田美波は、遠ざかる足音を聞きながらも、苛立ち一つ浮かべなかった。むしろ、口元に薄い笑みが滲む。
閉じ込める?
いいじゃない。
この身体に残る毒を処理する時間が、ちょうど欲しかった。
それに――菅田美幸。
菅田美波は指先を見下ろし、笑みの弧だけが冷たく深まった。
さっき弾いたのは、ただの粉じゃない。あの数株の薬草から抽出した、強力なアレルゲンだ。
舞台は、すぐ整う。
翌朝。
メイドが鍵を開けに来て、「旦那さまのご命令で、学校へ」と淡々と告げた。
菅田美波は一晩呼吸を整えた。毒は抜け切らないが、意識は澄んでいる。
制服に着替え、無表情のまま朝食を済ませる。菅田美幸と菅田雨子の、怨みと恐怖が混ざった視線を背に、別荘を出た。
学校へ着いた瞬間から、刺さるような視線が降り注ぐ。
「見て、菅田美波だ」
「昨日、学校で何人も殴って、家では父親にまで手を上げたって」
「継母の首、絞めかけたってマジ?」
「普段あんなに地味なのに?」
「やば……ブスでデブで短気とか最悪。加藤先輩が相手にしないのも当然だろ」
噂は蝿の羽音みたいにまとわりつく。菅田美波は一切気にせず、教室へ真っ直ぐ向かった。
席に腰を下ろした、その瞬間。
影が落ちた。
加藤浩史が机の前に立っている。上から覗き込み、眉をわずかに寄せた。
「……大丈夫か?」
菅田美波は顔を上げ、探るような視線を正面から受け止める。整った横顔に、年齢に似合わぬ落ち着きが滲んでいた。
「何が?」
淡々と返す。
加藤浩史は、赤く腫れたニキビだらけの顔を見て、なぜか言葉が余計に出た。
「昨日のこと……菅田雨子たち、やりすぎだ。あんまり気にするな」
自分でも理由は分からない。ただ、昨日――あの灰皿を握り潰した彼女が、安っぽい悪意に縛られるのは違う気がした。
菅田美波は少しだけ眉を上げ、それから口元を引く。
「ありがと」
礼は礼。だが距離は一歩分、きっちり残す。
加藤浩史が何か言いかけたところで、チャイムが鳴った。彼は渋々自席へ戻る。それでも視線だけは、何度もあの背中へ引き寄せられた。
一時間目は数学。
教師が小テストの束を抱えて入ってくる。
「今日は小テストだ」
教室に一斉の悲鳴が上がった。
菅田美波はプリントを受け取り、ざっと目を通す。高校の基礎レベル。前世の彼女にとっては、呼吸より簡単だ。
ペン先が走った。迷いがない。
40分のテストを、15分で終える。
周囲が唖然とする中で提出し、菅田美波は机に突っ伏して目を閉じた。呼吸を整える。身体の芯に残る鈍い重さを、少しでも押し返すために。
背後から、鼻で笑う声。
「はいはい、どうせデタラメ」
高木寧音の嘲り。
やがてチャイムが鳴り、数学教師が採点済みの束を持って戻ってきた。表情が妙に硬い。
「今回、伸びた者もいるが……残念な者もいる」
一拍置き、教室を見回す。
「小テスト一位――菅田美波。満点」
教室が、凍りついた。
菅田美波?
最下位常連の落ちこぼれが――満点?
「先生! ありえない!」
高木寧音が勢いよく立ち上がり、菅田美波を指さす。
「絶対カンニングです!」
数学教師が眉をひそめる。
「高木くん、決めつけは――」
「決めつけじゃない!」
高木寧音はポケットから紙切れを掴み出し、教卓へ叩きつけた。
「これです! 菅田美波の机の下から拾った! 公式だらけで、字も菅田美波の字!」
視線が、菅田美波と高木寧音と紙切れの間を往復する。
教師は紙を取り上げ、次いで菅田美波の満点答案を見る。答案はやけに綺麗で、手順も完璧。写したようには見えない。だが、目の前に「証拠」がある。
数学教師は、まだ机に突っ伏している菅田美波へ向き直り、声を硬くした。
「菅田くん、説明しろ」
そこでようやく――菅田美波が動いた。
