第6章 誰の差し金
彼女はゆっくりと上体を起こすと、ざわつく視線――面白がる者、興味津々の者――を背中で受けながら、のんびりと教壇へ向かった。
「証拠」だという紙切れには目もやらない。視線を落としたのは、高木寧音の興奮で紅潮した顔だった。
「そこまで必死に私を陥れたいんだ。菅田雨子に、何をもらった?」
菅田美波の声は淡々としていた。
高木寧音の顔色がすっと抜ける。尻尾を踏まれた猫みたいに、甲高く噛みついた。
「な、何言ってんの! でたらめ言わないで! 私はただ、あんたのカンニングが許せないだけ! 話そらさないで!」
「へえ?」
菅田美波はようやく紙切れを手に取った。ほんの一瞥。唇の端に、薄い嘲りが浮かぶ。
彼女はそれを先生の前へ掲げ、冷えた声で言い切った。
「先生。まず一つ。これ、古く見えるけど、ただわざと揉んでるだけ。角の擦れ方が新しいし、インクも滲んでない。つまり、書いたのは最近」
「それから二つ目」
一拍。視線が刃みたいに高木寧音の頬を削る。
「筆跡は私の癖を真似ようとしてる。でも肝心なところでボロが出てる。数字の『7』。私は短い横棒を入れる。ここにはない。あと『解』の字。刀の最後、書く人の癖で、ほんの小さく上に跳ねる」
数学の先生が身を乗り出して覗き込み、息を呑んだ。たしかに、その通りだ。
菅田美波は誰にも反応する暇を与えない。すぐさま高木寧音の席へ向かい、怯えた目を受け止めたまま、彼女の数学の答案を取り上げた。
「で、面白いのがね」
教壇に戻り、答案と紙切れを並べる。そして同じ一文字を指で叩いた。
「高木くんも『解』の最後、まったく同じ跳ね方してる」
教室がどよめいた。あちこちから椅子が軋む音。皆が首を伸ばして見比べる。
――一致している。否定のしようがない。
高木寧音の血の気が引き、唇がわなわな震える。声が出ない。
数回見ただけで、ここまで見抜くなんて。化け物――。
「わ、私は……」
「高木くん、まだ言い訳する気か!」
数学の先生は顔を青黒くして怒鳴った。長年教壇に立ってきたが、こういう卑怯な中傷が一番許せない。
そのとき。
ずっと黙っていた加藤浩史が、すっと立ち上がった。
教壇のそばまで来て、菅田美波をじっと見る。驚き、称賛、そして本人すら気づいていない熱が、その眼に混じっていた。
――強くなっただけじゃない。頭まで、ここまで冴えているのか。
「先生」
加藤浩史ははっきり言った。
「念のため、もっと専門的に確認したほうがいいです。僕の先輩に書道部の人がいて、筆跡を見るのが得意なんです。呼びます」
返事を待たず、スマホを取り出して発信する。
それはつまり、高木寧音に残された最後の逃げ道すら塞ぐ一手だった。
五分もしないうちに、背の高い細身の男子生徒が教室へ入ってきた。紙切れと答案を手に取り、三十秒ほど視線を往復させる。
「運筆の癖が九割一致。書いたのは同一人物です」
真相が、突きつけられた。
教室の空気が変わる。疑いの目が、露骨な蔑みへと塗り替わった。
「自分ができないからって、他人をカンニング扱いとか最低」
「菅田美波が満点なの、実力だろ。何様?」
高木寧音はその視線に刺され、肩を震わせた。涙が、ぱっと溢れ落ちる。
菅田美波は動じない。ゆっくり歩み寄り、高木寧音の前で少しだけ身を屈めた。二人にしか届かない声で囁く。
「言いなさい。誰の指示? 自分が馬鹿なだけ? それとも菅田雨子の命令で、逆らえない?」
高木寧音の身体が強張る。反射で教室後方の菅田雨子を見そうになった――が。
視線が向きかけた瞬間、菅田雨子と目が合う。
柔らかそうで、底冷えする目。警告と脅しが詰まっている。――余計なことを言ったら、終わり。
高木寧音は一気に血の気が引いた。
菅田美波という、今ここで爪を見せた化け物。
そして菅田雨子という、学校で根を張り、陰で人を潰す「良い子」。
天秤は、答えを出した。
「わ、私です! 全部、私がやりました!」
高木寧音は突然、泣き崩れたように叫ぶ。
「嫉妬したの! 落ちこぼれが満点なんて、許せなかった! 恥かかせたかっただけ! 誰も関係ない!」
罪を、全部ひとりで被った。
菅田美波は冷えた目で見下ろしたまま、追撃はしなかった。
いい。鉄砲玉がまた一つ、潰れただけ。
帳簿は、ゆっくり付け替えればいい。
結局、高木寧音は悪質な中傷として大きな処分を受け、全校集会での反省も命じられた。
この騒動は、菅田美波の完勝で幕を閉じる。
……
放課後。菅田美波はすぐには帰らなかった。
菅田美幸母娘のいる家は、ブラッド・プリズンより胸糞が悪い。
薬局で傷の手当てと体調の薬を買い込み、人の少ない裏道へ回る。
薄暗い路地へ足を踏み入れた瞬間、ふっと血の匂いが鼻を刺した。
暗夜の首領として、嗅ぎ慣れた臭いだ。
菅田美波の足が止まる。目が鋭く、奥へ走った。
黒いジャケットの男が、壁に背を預けて半身を落としている。大柄な体。短髪の下の横顔は硬く、切っ先のように冷たい。追い詰められてなお、人を寄せ付けない危険な気配。
左腕はだらりと垂れ、指先から血がぽた、ぽたと落ちて、暗赤の小さな溜まりを作っていた。
記憶が弾ける。
菅田承吾。
名目上の叔父。血のつながりはない。祖母の戦友の遺児で、菅田家に引き取られた男。特殊任務だかで家と断絶し、何年も戻っていない――そのはずだった。
ここで会うとは。
菅田美波は少し迷い、それから歩を進めた。元の身体の持ち主の記憶の中で、数少ない善意をくれた大人。
二歩近づいたところで、男が鋭く顔を上げた。
孤狼の眼。警戒と殺意が、一瞬で彼女を捉える。
「止まれ。近づくな」
菅田美波は足を止めた。腹を押さえる手。その隙間から、血が滲み続けている。
「怪我してる」
事実だけを、平静に告げる。
だが菅田承吾の殺気は濃くなった。この時間、この場所で、普通の女子高生が流血にこんな目を向けるはずがない。
「誰の差し金だ」
掠れた声。冷たく、隠す気もない。
菅田美波は答えない。もう一歩だけ近づいた。傷を確認するために――。
その一歩が、男の神経を切った。
ひゅっと寒光が走る。
菅田承吾の健在な手が、鉄の鉤爪みたいに伸びた。菅田美波の喉を抉り取る軌道。速い。正確。容赦なし。
――本気の殺し手だった。
