第2章

 続いて、外で悠介たち家族が警察と交渉している声が聞こえてきた。

「お巡りさん、誤解です。ここは彼女の家でして、痴話喧嘩をしていただけで……」

 本当に警察がこんなに早く来てくれたのだと思い、狂喜が胸に込み上げた。

 私は玄関に駆け寄り、下駄箱をどかし、サムターンのツマミに手をかけた。

 もうすぐ助かる!

 まさにドアを開けようとしたその瞬間、握りしめていたスマートフォンが唐突に震え出した。

 見知らぬ番号からだ。私は無意識に通話ボタンを押した。

「桐谷素子さんですか? 先ほど通報を受けた警察官です」

 私の手はピタリと止まった。「あ、あなたたち……今どこに?」

「台風で道路状況が非常に悪く、まだそちらのブロックには到着しておりません。あと十分ほどかかる見込みです。安全のため、到着後に合言葉を言います。合言葉は『ハリケーン』です。それが確認できるまで、絶対にドアを開けないでください」

 私は勢いよく電話を切り、二歩後ずさりして、そのドアを恐怖に満ちた目で見つめた。

 警察はまだ来ていない!

 じゃあ、さっきドアの外から聞こえた警察の声は誰の!?

 騙された!

 外に警察なんているはずがない。悠介たちが誰かを雇って偽装したか、自分たちで芝居を打っていたのだ!

「素子! 警察も来たんだ、さっさと出てきてドアを開けろ!!」外から悠介が怒鳴り声を上げ、その偽装は完全に引き裂かれた。

 私は音を立てないよう、自分の口を必死に両手で塞いだ。

 私が騙されなかったのを見て、外の悠介たちは完全に逆ギレした。

 ドアの向こうから、兄の雅也が激しくドアを蹴る音と、母親の加美恵の悪意に満ちた罵声が響いてくる。

「クズめ、痛い目を見ないと分からないようね!」

 突然。

 ドアを叩く音も罵声もピタリと止み、外は死のような静寂に包まれた。

 それに続いて、私の肝を冷やす音が聞こえてきた。

 ピッ。ピッ。ピッ。

 電子ロックのボタンを押す音だ!

 彼らは外で、私の家の暗証番号を手当たり次第に入力し始めたのだ!

「ありえない、彼が暗証番号を知ってるはずがない……」私は唇を強く噛みしめ、必死に自分に言い聞かせた。

 付き合って一年になるが、ここの暗証番号を教えたことなど絶対にない!

 しかし次の瞬間、極度の恐怖が全身を駆け巡った。

 お母さんの誕生日!

 悠介はいつも優しくて思いやりのある男を装っていた。そして私のプライベートな手帳を盗み見たことがある。彼なら絶対にあの日にちを知っている!

 外から悠介の荒々しい罵声が聞こえた。

「くそっ! このクズ、どんな番号に設定してやがるんだ?」

 息をつく暇もなく、私の視界の端が玄関の巨大な姿見を無意識に捉えた。

「あっ!」私は口を強く塞ぎ、悲鳴を喉の奥に押し殺した。

 あの顔中血まみれで、服もボロボロに引き裂かれた「私」が、再び現れたのだ!

 彼女は鏡面に張り付き、血に染まった指で狂ったようにガラスを掻きむしっている。

 彼女の絶望的な眼差しは私を凝視し、口を大きく開けて声なき咆哮を上げていた。

『中に入れちゃダメ!』

 台風で道が悪く、警察はさっきの電話でまだ十分かかると言っていた。

 十分? 今はもう一分だって待てない!

 待って、マンションのプライベートセキュリティがある!

 私はハッと我に返った。この高級マンションには、二十四時間体制の武装警備員が巡回している!

 私はすぐに警備隊長の早村の番号を探し出し、震える指で発信ボタンを押した。

「出て! 早く出て!」

 コール音が三回鳴り、ようやく繋がった。

「はい、こちら警備センターです」

「助けて! 早村さん! 今すぐ私の階に人を連れてきて! 誰かがドアを破って私を殺そうとしてるの!」私は声を押し殺し、早口で助けを求めた。

「桐谷様ですか? 落ち着いてください。ただちに人員を向かわせます!」

 電話を切ると、私は全身の力が抜け、壁伝いに床へと崩れ落ちた。

 外ではまだ暗証番号の入力が続いている。

「悠介、本当に大丈夫なの? 薬の効果には時間制限があるのよ!」加美恵の刺々しい声が響いた。

 薬の効果? 何のこと?

 私の背中は一瞬にして冷や汗でびっしょりになり、不吉な予感が私の喉を強く締め付けた。

 チン――

 唐突に、外でエレベーターの到着音が鳴った。

 警備員が来た!

 私は藁にもすがる思いでドアに飛びつき、覗き穴から外を覗き込んだ。

 制服姿の早村が、屈強な警備員を二人引き連れ、物々しい雰囲気でエレベーターから降りてきた。

「そこの方々、ここで何をされているのですか?」早村の厳しい声が、分厚い防犯ドアをすり抜けて聞こえてきた。

 助かった! 私は嬉しさのあまり涙をこぼした。

 ドアの外では、さっきまで荒れ狂っていた悠介の顔が、振り返った瞬間に非の打ち所のない無実と焦燥の表情へと切り替わっていた。

「お巡りさん、いや、警備員さん。これは誤解なんです」

 悠介の声は、愛情深く、どうしようもなく、そして哀れげに聞こえた。

「中にいるのは僕の彼女の素子なんですが、外の台風がひどすぎて、車が途中で立ち往生してしまい、仕方なく家族を連れて彼女のところに一時避難しに来たんです」

「でも、さっきちょっとしたことで口論になってしまって。彼女、今へそを曲げていて、どうしてもドアを開けてくれないんですよ」

「本当に誤解なんです!」雅也も瞬時に媚びへつらうような偽善的な顔つきに変わった。

 早村は眉をひそめ、彼らを値踏みするように見回した。明らかに心が揺らいでいる。

 ブーブーブー。

 私のスマートフォンが鳴った。早村からだ。

「桐谷様。外に彼氏様とご家族を名乗る方々がいらっしゃいまして、避難しに来たとのことですが、痴話喧嘩をなされているのですか?」

「違う! 早村さん、彼を信じないで!」私は声を潜め、悲鳴に近い声で反論した。

「避難なんかじゃない! さっきも警察のふりをして私にドアを開けさせようとしたの! 彼ら、私を殺す気よ!」

 電話の向こうで、早村の声にはわずかな疑念が混じっていた。

「桐谷様、それは非常に重大な告発です。ですが、彼らは武器を所持しているようには見えませんし、態度も協力的です」

 私は歯を食いしばり、頭をフル回転させた。彼らを追い払わなければ!

 私は切り札を出すことにした。

「早村さん、証拠があるの! うちのドアの外にあるスマート覗き穴には、二十四時間録画機能がついてるのよ!」

 私はわざと声を張り上げ、外にいる悠介たちにしっかり聞こえるように言った。

「さっき彼らがドアを叩き壊そうとしたり、汚い言葉で私を脅したりした映像は、全部クラウドに保存されてる! 私がボタンを一つ押せば、その動画はすぐに警察署に同期されるわ!」

「悠介、警告する。今すぐその悪魔みたいな家族を連れて私のマンションから出ていきなさい! さもないと、あんたたち今夜は全員刑務所行きよ!」

 ドアの外は、一瞬にして死のような静寂に包まれた。

 極度の緊張で私の両手は激しく震え、手のひらは冷や汗でぐっしょり濡れていた。

 彼らが恐れをなし、後ろめたくなって立ち去ってくれさえすれば……。

「ふふっ……」低い冷笑がドアを突き抜けてきた。

「素子、俺の可愛いベイビー」

 悠介の声が突然ドアの隙間に近づき、背筋が凍るような得意げな響きを帯びた。

「お前、怖すぎて記憶が混乱してるんじゃないか?」

 私の心臓がドクンと跳ねた。

「どういう意味?」

「三日前、お前のベッドでイチャイチャしてた時、お前が自分で文句を言ってたじゃないか。外の高級カメラのバッテリーが切れてるのに、まだ交換する暇がないって」

 ドカン!

 雷に打たれたような衝撃が走った!

 思い出した!

 あれは本当に、何気なく愚痴をこぼしただけの世間話だった! 彼はそれを一言一句覚えていて、この致命的な瞬間に私を追い詰めるために持ち出してきたのだ!

 私にはどんな動画の証拠も出せない!

 外からすぐに雅也の横柄で下品な嘲笑が聞こえてきた。

「警備員さん、聞こえましたか? こいつ、証拠なんて出せないんですよ。俺たちに嫌がらせをするために嘘をついてるんです!」

 早村の声は電話越しで完全に冷たくなり、迷惑そうな苛立ちさえ混じっていた。

「桐谷様、確固たる証拠をご提示いただけないようでしたら、このような単なる家庭内のトラブルにおいて、我々警備員がお客様を強制的に立ち退かせる権限はありません」

「違うの! 早村さん、お願い、行かないで! 聞いて、彼らは本当に私を傷つける気なのよ!」私は焦りで涙をぼろぼろとこぼし、電話に向かって狂ったように哀願した。

「申し訳ありませんが、お客様。彼氏様との喧嘩でしたら、当人同士で解決してください。外は台風警報が引き上げられており、我々は地下駐車場の見回りも残っておりますので。それでは、良い夜を」

「ツーツーツー……」

 電話は無情にも切られた。

 私は絶望的な思いで覗き穴を見つめた。

 早村は二人の警備員を連れ、未練の欠片もなく背を向けてエレベーターへと乗り込んでいった。

「いや……やめて……」私は力なく床に崩れ落ちた。

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