第2章
「ドリアン! それ、ちょっと持って!」
カミラの甘ったるい声が、屋敷の前庭に弾んだ。マイバッハのトランクは開け放たれ、中には大小の紙袋とギフトボックスが山のように詰め込まれている。
呼び声を聞いたドリアンは、灰がかった青い瞳に甘い許しを滲ませた。
「今行く、カミラ」
大股で歩み寄り、カミラの金髪をくしゃりと撫でる。次いで片手で買い物袋をまとめて提げ、屋敷のホールへ運び込んだ。
幹部のアントニオがその光景を目にし、葛藤を顔に浮かべたまま口を開く。
「ドリアン様……もう七日です。地下室のサーシャ様を、そろそろ出してやっては……?」
シャンパンを注いでいたドリアンの手が、ぴたりと止まった。鼻で笑い、冷えた声を落とす。
「あの女、毒蛇みたいなビッチだ。あと何日か閉じ込めておけ。キャラハン家の、あの骨の髄まで染みついた傲慢さでも剥いでやる」
アントニオの顔色が青ざめる。ためらいがちに続けた。
「ですがドリアン様、ここ数日、牢のほうが……血の匂いが強すぎます。サーシャ様に何かあっては。入る前に、ご自分で……妊娠していると。医者を下へ――」
ドリアンの瞳に、あざけりが走る。
「血の匂い程度で怯むのか? 下の連中は加減を知ってる」冷たく言い捨てる。「カミラにあんな真似を仕掛けるような女だ。しかも、どこの野郎の種かも分からねえガキを俺に押しつけるつもりだった。代償は払わせる」
「しかし――」
アントニオが言いかけたところで、シャンパンを手にしたカミラが笑みを乗せて遮った。
「アントニオ、ファルコ家のことを、いつから幹部ごときが決めるようになったの?」
笑みをすっと消し、氷の視線を向ける。
「先代のゴッドファーザーに仕えていた古株だからって、ドリアンの決断に口を挟めると思わないで。自分の立場をわきまえなさい」
アントニオの表情が固まり、完全に口をつぐんだ。
カミラはくるりと身を翻し、笑いながらドリアンの首に腕を回して、その膝に横座りする。
「ドリアン」指先が彼の胸元に円を描く。「シチリアで私に約束したこと、まだ有効よね? サーシャとの政略結婚を破棄して、私と結婚するって」
ドリアンが低く笑い、カミラの頬に口づける。
「小悪魔だな。俺がいつ、お前に嘘をついた?」
けれど、私の名が出た瞬間、彼は何か不快なものでも思い出したように顎を強張らせた。表情が荒れ、暴力の気配が滲む。
「サーシャって女は悪辣だ。家の力を盾にして俺を嵌めて妻に収まったくせに、今度は妊娠だと? 反吐が出る。あいつの親父がここ数年で縄張りを広げすぎたせいで、委員会の老いぼれどもを宥める必要があった。すぐに蹴り飛ばせる材料がなかっただけだ」
ドリアンはグラスを握りつぶすほど強く掴み、関節が白く浮いた。
「だが、スラムの男どもにお前があんな目に遭わされたと思うと……サーシャをバラバラにしてやりたくなる!」
カミラの視線が一瞬だけ泳ぐ。すぐに取り繕い、やさしくドリアンの頬を撫でた。
「大丈夫よ、ドリアン。サーシャは、私があなたを奪ったと思って嫉妬で狂ったのよ。もし彼女が這い出てきて、私の前でひれ伏して謝るなら……水に流してあげてもいい」
ドリアンは甘い眼差しで彼女を見つめ、腕の中へ抱き込んだ。
「カミラ、お前は優しすぎる。あんな狂った女にまた傷つけられたら、俺が耐えられない」
二人はホールで頬を寄せ合い、囁き合い、絡み合う。
そして私は――そのすぐ近く、一メートルも離れていない場所に漂いながら、その男女を睨みつけていた。喉元を引き裂いてやりたくて、鬼にでもなりたい気分だった。
だが、私の両手がドリアンの首にかかった瞬間――息が詰まることも、もがくこともない。半透明の魂は、彼の身体をするりと貫通してしまう。
私は悲しく首を巡らせ、向かいの姿見を見た。
鏡にはホールが映り、抱き合う恋人たちが映っている。けれど、私だけがいない。
私が死んでいるからだ。三日前、暴行と凌辱で満ちたあの地牢で。
ドリアンとカミラは長い口づけののち、名残惜しそうに身を離した。
「行こう、カミラ。今すぐあの下劣な女を引きずり出して、お前の足元で詫びさせる」
カミラは頬を染め、スカートの裾を整える。ドリアンの後ろをついて、護衛に囲まれながら地下牢へ向かった。
「サーシャ、出てこい! カミラに跪いて謝れば、命だけは助けてやる!」
ドリアンは鉄扉の外から見下ろし、氷のような声を響かせた。
返ってきたのは、水滴が通路へ落ちるぽたり、ぽたりという反響だけだった。
扉の向こうは静まり返り、誰の返事もない。
私の懇願の声が聞こえないことで、ドリアンは目に見えて苛立ちを増した。乱暴にネクタイを緩める。
「蹴り破れ」
背後の男が二人、前へ出た。ドンッ、と一撃。鉄扉が弾けるように開く。
その瞬間、吐き気を催すほど濃縮された血の臭いが、死体の腐臭と混ざり合って襲いかかった。
カミラは露骨に顔をしかめ、鼻を押さえて後ずさる。
「なに、この臭い……! 最悪、死にそう! ドリアン、もう出よう、ここ」
ドリアンはその場で、ほんの一拍だけ身体を硬直させた。ためらうように、真っ黒な入口を見つめる。
私はその頭上で、冷たく笑った。
何の臭いかって?
黒ずむほど濃い、乾きかけた血。絞め殺された私の、三日腐った肉の臭い。それに、十数人の男が牢に残していった汚れた匂いだ。
「怖がるな、カミラ」
ドリアンはすぐに動揺を飲み込み、やさしい声で宥めた。
「お前は外で待ってろ。中の臭いは強すぎる。俺が入って、死んだふりしてるあの女を引きずり出す。お前の前で頭を地面に擦りつけさせてやる」
彼は背を向け、アントニオを連れて地下へ踏み込もうとする。
二歩も進まないうちに、カミラが彼の服を掴んだ。
「ドリアン」声を落とし、睫毛が小さく震える。「サーシャを見ても、怒りすぎないで。七日も閉じ込められたら、さすがに懲りてるはずよ。ちゃんと話し合って……私のせいでここまで拗れたなら、私、罪悪感があるの」
目を伏せ、健気そうに胸へ寄り添う。
「一族の奥様たちが、陰で私のことをひそひそ言うのが嫌。『家庭を壊す女』だなんて呼ばれたくないの。ドリアン、私たちの愛は、日の当たる場所で清くありたい。誰にも後ろ指をさされない形で」
ドリアンは痛ましそうに彼女の手を包み、指先を強く握った。
「カミラ、お前に出会えたことが俺の幸運だ」
そう言い残し、ドリアンはアントニオを連れて、ゆっくりと地牢の奥へ進んでいく。
広い地下の取調室には、天井の裸電球がちかちかと頼りなく瞬いていた。壁には拷問具がずらりと吊られている。
ドリアンは冷え切った顔で前へ進み、反射的に腰の拳銃を抜いた。革靴が床を踏むたび、ねばりつくような不快な音がする。
薄暗い光の下では、彼は気づけない。足元のコンクリート一面が、乾きかけた暗赤の血で覆われていることに。
「サーシャ! てめえ、出てこい! 死んだふりしてんじゃねえ!」
拳銃を握る手に力がこもり、怒号は闇の奥へ突き刺さる。声には、抑えきれない微かな震えが混じっていた。
それでも、返事はない。
あるのは、死の沈黙だけ。
