第3章

 宙に浮いたまま、私は悲しげに自分の死体を見下ろしていた。

 手足は麻縄で地下室の梁柱にきつく縛りつけられ、ありえないほど歪んだ格好のまま立たされている。首だけが力なく、限界まで反り返っていた。

 地下室は薄暗い。だが近づけば、私の首に食い込んだ痕が紫黒く変色しているのが、はっきり見える。

 ドリアンが鼻で笑い、ねっとりとした血で汚れた床を革靴で踏んだ。

「アントニオ、懐中電灯をよこせ」

 アントニオは顔面を青ざめさせ、震える手でそれを差し出した。

 ドリアンがスイッチを入れる。ぎらり、と刺すような白い光が闇を裂き、正確に私の生気のない身体を射抜いた。

 柱の前で立ったまま縛られ、動かない。壊れて捨てられた布人形みたいに。

 ドリアンは、私がいつものように仮死だの気絶だのを装っていると思ったのだろう。ずかずか近寄り、私の脛骨めがけて容赦なく蹴り込んだ。

「サーシャ、ふざけた真似してんじゃねえ」

 地下室に声が反響する。

「七日間ここで学んだか? 今すぐ這って出て、カミラに跪いてちゃんと謝れば、今回は慈悲をかけてやる」

 私は彼の背後で口元を歪めた。ドリアン――あなたに、私を許す機会なんてもう永遠に来ない。

 三日前、私はもう死んでいる。あなたの手下の暴徒どもに、首を絞められて。

 ドリアンは昔から自信家だ。あれだけ蹴っても、私は微動だにしない。痛みの声ひとつ出ない。それだけで彼の瞳に怒りが燃え上がった。

「アントニオ、この悪ふざけしてるビッチを引きずり出せ!」

 アントニオはさっきから怯えきって震えていた。腹をくくって近づき、固結びを解こうとする。だが私の服に触れた瞬間、手のひらにべっとり絡みつく感触がした。鼻腔を突き刺す濃い血の匂い。

 死を見慣れたはずの幹部の顔から、さっと血の気が引く。震える指が勝手に、私の鼻先へ伸びた。

 時間が止まったみたいだった。数秒後、アントニオは火に触れたように手を引っ込める。血溜まりに尻もちをつき、ガタガタと声を震わせた。

「ボス……ドナは……もう冷えきってる! 息、してません!」

 その言葉と同時に、ドリアンの懐中電灯を握る手が固まった。

 私は彼の隣へ漂い、横顔にほんの少しでも悲しみや後悔が滲むのを望んだ。

 けれど、たった一秒。

 ドリアンは不快そうに嗤い、再び視線を氷のように冷たくした。

「キャラハン家の娘らしいな。筋金入りの策士だ。俺を折れさせるために、死んだふりまでやるとは――下劣にもほどがある」

「ち、違います、ボス……!」アントニオが必死に説明しようとしたが、ドリアンが冷たく遮った。

「伝えとけ。三十分だけやる。身体を洗って着替えて、大広間へ来い。カミラに跪いて謝れ。そこで終わりにしてやる」

 言葉が刃のように続く。

「まだ死んだふりを続けるなら、この地下室で永遠に腐らせてやる」

 ドリアンは完全に堪え切れなくなったのか、ふんと鼻を鳴らし、懐中電灯をアントニオへ投げて地下室を出て行った。

 アントニオは血溜まりの中に立ち尽くし、行くことも残ることもできない顔をしていた。

 血の繋がりすらない幹部でさえ、この姿を見て目元を赤くし、ぽろぽろと涙を落とすというのに。

 三年間愛した夫は、私を蛇蝎のように嫌い、「腹黒い女」と吐き捨て、最後まで私が芝居を打っていると信じて疑わない。

 きっと彼は忘れてしまったのだ。いま忌み嫌っているその「愛」が、どこから芽生えたものなのかを。

 十六の年、キャラハン家は抗争の暗殺に遭い、母は銃声の中で死んだ。

 抑うつと絶望に沈み、海上大橋の欄干を越えて海へ飛び込もうとした私を、止めたのはドリアンだった。彼は部下を連れ、あの銃撃戦を終わらせ、私を救った。

 葉巻を挟んだ指で、彼は無造作に私の頬の血を拭い、乱暴なくらい強引に顎を持ち上げて唇を奪った。

 キャラハン家の女が、冷たい海で死ぬなんて許さない。生きろ。俺が迎えに来る。俺が娶って、絶対の庇護をくれてやる――そう言った。

 それで私は、恋に落ちた。

 なのに、やっとの思いで彼と結婚したとき、彼の顔にあったのは嫌悪だけだった。

「サーシャ。お前の親父の『道』での力を盾に、政略結婚を押しつけたくらいで、安泰だと思うな。ゴッドファザーの妻としてふんぞり返れると思ったか」

 触れようともしない。視線は凍りつくほど冷たい。

「俺には愛する女がいる。カミラだ。結婚前も、結婚後も、愛してるのはあいつだけだ」

「結婚したら別棟で寝る。お前はドナとして大人しくしてろ。外向きの面子は守ってやる。それだけだ」

 そう言い捨てて、彼は背を向けた。血の繋がらない妹のカミラの元へ行き、平然と関係を持った。

 橋の上でのあの言葉は、死にたがりの少女をなだめるための適当な嘘だったのだろうか。

 でも私にとっては、あれが生きるための唯一の灯だった。

 ファルコ家で使用人たちに冷遇され、カミラに陰で突かれても、ドリアンの傍を離れるなんて一度も考えなかった。

 その後、父が私の結婚生活のことを知り、胸を痛めて怒った。

「サーシャ、それが、お前が望んだ愛なのか。そこが辛いなら、父さんはファルコ家と戦争してでも、お前を連れ戻す」

 胸がぐしゃぐしゃに酸っぱくなった。それでも涙を噛み殺し、私は首を振った。

 もう少しだけ、試したかった。

 ドリアンが本当に私を忘れたなんて、信じたくなかった。

 けれど彼にとって私は、ただの腹黒い女だった。彼と結婚するため、子を宿すためなら何でもする女。

 カミラがスラムで辱めを受けた件だって、私とは何ひとつ関係がない。なのにカミラが指を一本立てただけで、ドリアンは弁明さえ聞かず、私に「手配して暴行させた」という汚名を着せた。

 私は、何もしていない。

 それなのに私は、彼の子を身ごもって二か月の身で。

 最後には、彼の最も冷酷な処刑人たちに、目も当てられないほど惨たらしく弄ばれて殺された。死んでからさえ、「芝居」扱いされた。

 弱肉強食の裏社会で、もし私がひとつだけ犯した罪があるとしたら。

 十六のあの夜、血の匂いのする闇の中で、冷血な獣が愛を与えてくれるなどと――そんな夢を見たことだ。

 最初から、私はドリアン・ファルコを愛するべきじゃなかった。

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