第1章

杏璃が目を覚ますと、額が焼けるように熱かった。

「文哉……」

かすれた声で呼ぶ。

「ママに、お水……入れてくれる?」

返事はない。

少し待っても、家の中はしんと静まり返ったままだった。

布団をはねのけ、床に足を下ろした瞬間――ぐらり、と視界が揺れる。

近くのテーブルに手をつき、歯を食いしばって寝室のドアを押し開けた。

子ども部屋の扉が半開きになっていて、息子の弾んだ声が漏れてくる。

「友里絵おばさん、ぼくがあげたプレゼント、好き? パパといっしょに、すっごい時間かけて作ったんだ!」

杏璃の足が、扉の前で止まった。

隙間から覗くと、文哉はキッズスマートウォッチに向かって話している。

「ねえ友里絵おばさん、明日さ、運動会いっしょに来てくれない?」

「ママに来てほしくないんだ。前に学校来たとき、服がダサかったし、汗ふくのもしつこくて……クラスのみんなに笑われたんだよ……」

「友里絵おばさんが来てくれたらいいのに。友里絵おばさん、きれいで、いろんな国の言葉も話せるんだもん!」

喉の渇きが、目の奥まで染みていく気がした。

杏璃はその場から動けず、指先がひどく震えた。

耳で聞かなければ、知らなかった。

自分が息子の目に、こんなふうに映っていたなんて。

――ダサい。

でも、かつての彼女は舞台の上で光を浴びていた。

大原晴樹と結婚してからだ。今みたいになったのは。

身なりに構わず、肌はくすみ……。

息子を見つめる。まだ小さいのに、眉と目元は杏璃と大原晴樹によく似ていた。

それなのに熊元友里絵が戻ってきてからというもの、いつも抱きついて「ママ」と甘えてきた文哉は、もうずいぶん長く、まともに彼女と話していない。

喉がごくりと鳴った。立ち去ろうとした――そのとき、文哉に見つかった。

子どもの笑顔が一瞬で固まり、次の瞬間、怒りに変わる。

「ママ、盗み聞きしたの!?」

文哉はキッズスマートウォッチの通話をぶつっと切り、顔を真っ赤にした。

「先生が言ってた! 人の話を盗み聞きするのは失礼だって!」

杏璃は、息子の目にある拒絶と警戒を見つめる。唇を開いた。

「熱があって……お水、入れてほしくて……」

「自分で入れれば?」

ぷいっとそっぽを向き、文哉は腕時計をいじり続けた。

胸の奥が、ずきりと痛んだ。

涙をこらえ、こらえきれず、それでも諦めきれなくて尋ねる。

「文哉、明日の運動会……ママが一緒に行ってもいい?」

文哉は顔をしかめ、露骨に嫌がった。

「やだ。ぼく、友里絵おばさんと行くって約束したもん」

「でも、ママは――あなたのお母さんよ」

「ママじゃなきゃダメなんて誰が言ったの?」

文哉はぶつぶつ文句を言う。

「ママ、そういう小さいのやめてよ」

杏璃の身体がふらりと揺れ、骨の隙間から冷えが染み出すようだった。

彼女は頷いた。もう言葉が出ない。背を向けた。

視線がデスクに滑り、止まる。

机の上には、食べかけのショートケーキ。

「文哉」

反射的に口を開く。

「お腹弱いんだから、甘いものそんなに食べたら……夜――」

「うるさい!」

文哉は限界だと言わんばかりに目を赤くし、杏璃を睨んだ。

「ママって毎日やることないの? ぼくとパパは囚人なの? なんで全部の注意をぼくとパパに向けるの!」

まだ四歳。なのに言葉が、刃物みたいに杏璃の胸を刺した。

「そりゃパパが友里絵おばさんを好きになるのも当たり前だよ。友里絵おばさんは、こんなふうにぼくたちを縛らないもん」

杏璃は呆然と息子を見つめた。

三歳の文哉が、脳裏に蘇る。

よちよちと彼女の胸に飛び込み、甘い声で「ママ、だっこ」とせがんだ。

残業で帰りが遅い夜も、小さな枕を抱えて頑固に待ち、彼女が帰るまで寝なかった。

――それが、今は。

杏璃は息が詰まりそうになった。

文哉は生まれたときから他の子より痩せていて、三歳まではほとんど毎月病院に通った。

だから食事も、服も、生活の細部も、全部彼女が手で整えてきた。

けれど、その「守り」が最後には、彼女自身を刺す刃になった。

唇が震え、もう何も言えないまま、子ども部屋を出た。

壁伝いにゆっくりリビングへ戻り、昨夜の冷えた水を掴んで一気に飲み干す。

寝室に戻り、ひとりで長く座ってから、スマホを手に取り大原晴樹へ電話した。

三回。出ない。

握りしめたまま、これ以上はかけなかった。

無意識にSNSのタイムラインを開く。

一番上に出てきたのは、熊元友里絵の投稿だった。

【世界でいちばん心のこもったプレゼントをもらった。愛されてるって、幸せ。】

写真には手作りのカード。青い厚紙にキラキラの星が貼られ、そこに書かれていた。

【いちばん大好きな友里絵おばさんへ!】

コメント欄には、いつも冷たい夫の言葉。

【誕生日おめでとう】

その短い一言が、杏璃の目を刺した。震える指でスクロールする。

その下に、共通の友人たちの茶化しが群がっていた。

「やっぱ高嶺の花だよな」

「必死に頑張っても、本命が戻れば脇役よ」

「文哉の手先いいじゃん。晴樹が昔作ったあのブレスといい勝負」

「そもそも当時、誰かが割り込まなきゃ、文哉は友里絵の子だったのにね」

「岩崎社長、真の愛を取り戻せ!」

杏璃は自虐みたいに、一つずつ読んだ。

岩崎家が破産したあの年。

父は大原爺さんとの昔の婚約を持ち出し、大原晴樹に結婚を迫った。

後で知った。あの頃、大原晴樹には恋人がいたのだと。

結婚式の日、大原晴樹は泥酔して言った。

「杏璃、岩崎の奥様って名分はやる。それ以外は、望むな」

そこまで思い出して、杏璃はふっと笑った。

涙がぽたぽたと画面に落ちる。

五年。

丸五年。

大原晴樹から受け取ってきたものは、冷たさと距離だけだった。

彼が生まれつき冷淡なのではない。彼女に熱を向けたくなかっただけ。

熊元友里絵が戻ってきた今、彼女は「余りもの」になった。

悔しいか。

悔しい。

けれど五年のうちに、麻痺していた。

夫の無視。息子の嫌悪。

それがこの五年で手にしたすべて。

高熱で思考は鈍いのに、胸の奥の決意だけはやけに鮮明だった。

杏璃は大原晴樹とのチャットを開いた。

最後のやり取りは三日前。「週末、家でご飯食べる?」に対して、返事はひとつ。

「帰らない」

それきり。

杏璃は目をぎゅっと閉じ、ひと文字ずつ打ち込んだ。

「大原晴樹、離婚しましょう」

送信。

スマホを置き、立ち上がって荷造りを始める。

大原晴樹は金銭面で彼女を困らせたことはない。

だが杏璃は、もらったお金を全部、文哉と大原晴樹のために使ってきた。

だから五年経っても、彼女自身のものは驚くほど少ない。

よく着る服数着、身分証、日用品。

視線がベッド脇の棚に落ち、家族写真が目に入る。

写真の文哉はまだ幼く、彼女の腕の中。

大原晴樹は隣に立っていて、確かに――家族に見えた。

杏璃は自嘲して笑い、スーツケースを引いて出ていった。

子ども部屋からは、文哉の笑い声がかすかに聞こえる。

たぶんまた熊元友里絵とビデオ通話だ。

ぼんやりと、聞こえた気がした。

「友里絵おばさん、ぼくのママだったらいいのに」

杏璃は取っ手を握り締めた。

――もうすぐ、そうなるよ。

もうすぐ、あなたたちは幸せな三人家族になる。

深く息を吸い、迷いを捨て、振り返らずに歩いた。

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