第2章
大原晴樹が帰宅したのは、夜十時半を回っていた。
ジャケットを脱いで椅子の背に放り投げ、ネクタイをゆるめる。反射的に視線がソファへ向いた。
……空っぽだ。
いつもなら、どれだけ遅くなっても杏璃がそこに座って待っていたのに。今日は珍しい。
「パパ!」
パジャマ姿の文哉が「どたどた」と駆け下り、勢いよく胸に飛び込んでくる。
大原晴樹は反射的に受け止め、眉をひそめた。
「まだ寝てないのか」
「待ってたんだよ!」
文哉は小さな顔を見上げ、甘えた声を弾ませる。
「パパ、熊元友里絵おばさんがね、明日いっしょに運動会行ってくれるって!」
大原晴樹は腰を落として息子を抱き上げた。
「母さんは?」
「ママ?」
文哉は首をかしげる。
「今日はなんか変だった。あんまり嬉しくなさそう。でもいいの!」
大原晴樹は文哉を抱いたまま階段を上がる。文哉は首に腕を回し、口が止まらない。
「ねえパパ、熊元友里絵おばさんね、新しくできた子どもレストランに連れてってくれるって。テレビでCMしてたやつ……」
そこまで言って、急にしゅんとした。
「パパ、ママがさ、今日ね、運動会いっしょに行きたいって言ったんだ。明日、勝手に来たりしないよね?」
「来ない」
大原晴樹は考えもせず即答した。
文哉はぱっと笑う。
パパが「来ない」と言うなら来ない。だってママは、パパの言うことをいちばん聞くから。
「パパ、スマホ、ちょっとだけ触っていい? ほんのちょっと!」
「遅い」
「5分だけ! お願い、パパ!」
大原晴樹はせがむ息子を見て、結局ポケットからスマホを出して渡した。
「5分だ」
「やった!」
文哉はスマホを抱えてベッドへ跳び乗り、慣れた手つきでロックを解除する。
大原晴樹が主寝室を見に行こうと背を向け、二歩目を踏んだ、そのとき。
背後で「ぱん」と乾いた音がした。
振り向けば、スマホが床に転がっている。文哉はベッドの上で固まっていた。
「パパ……ぼく……落としちゃった……」
大原晴樹は拾い上げ、電源ボタンを何度押しても反応しない。
「ごめんなさい……わざとじゃないの……」
文哉は唇を尖らせる。
「いい」
大原晴樹は壊れたスマホをポケットに戻した。
「寝ろ」
子ども部屋の扉を閉め、主寝室へ向かう。
暗がりに灯りを点けた瞬間、違和感が目に飛び込んだ。
ドレッサーの瓶が半分以上なくなっている。クローゼットの扉は開き、中もずいぶん空っぽだ。
スーツケースまで、ない。
……怒ったのか。
珍しい。
ポケットに手を入れかけ、スマホが壊れていることを思い出す。大原晴樹は大して気にも留めず、鼻で笑った。
どうでもいい。
どうせ彼女は、いつも従順だ。自分で戻ってくる。
――その頃、杏璃は親友の家にいた。
「はあ!?」
田中奈々は話を聞くなりソファから跳ね上がった。
「離婚!? あんた正気!?」
杏璃はまだ高熱が抜けきらず、ソファに身を沈める。
「正気だよ」
声は落ち着いていた。
「むしろ、今がいちばん冴えてる」
最近の出来事を、ひとつ残らず話した。
聞き終えた田中奈々は黙り込み、しばらくして杏璃の手を握る。
「杏璃……悔しいのは分かる。でも、この五年、あいつらのためにどれだけ尽くしたの。ほんとに、それでいいの?」
「当時あんた、学科でいちばん才能あるデザイナーだったじゃん。先生だって『十年に一人の天才』って言ってたのに、結婚のためにキャリア捨てたでしょ」
杏璃はぼんやりと目を伏せた。
そうだ。作品は海外の雑誌にも載り、世界トップクラスのデザインアトリエから声もかかった。
それでも――彼女は大原晴樹と結婚した。
彼が「人前に出る妻は嫌いだ」と言えば退職し、
「家を回す人が必要だ」と言えば専業主婦になり、
「文哉には母親が必要だ」と言えば、すべての時間を家に注いだ。
五年。自分が誰だったかさえ、忘れかけていた。
「文哉だってそう。生まれつき弱くて、あんたが寝ずに看た。三歳までどれだけ病院行ったよ? 毎回あんたが抱いて徹夜したじゃん」
田中奈々の目にも涙が滲む。やがて、ふっと息を吐いた。
「……もういい。離婚でいい。あの親子、勝手にやれ!」
「でもタダで離婚するなよ。財産はきっちり。文哉の親権も――」
「親権は大原晴樹に」
杏璃が遮った。
田中奈々が固まる。
「……何言ってんの?」
「文哉は熊元友里絵のほうが好き」
杏璃は苦く笑った。
「今日、本人が言った。熊元友里絵がママならいいって」
「だからって!」
田中奈々は焦った。
「熊元友里絵みたいなのに子育てできるわけない! 近づいてるのは大原晴樹に近づくためだよ! 子どもはまだ小さいだけ。父親の態度に引っ張られてるの。大きくなったら分かるって!」
杏璃はカップの縁を指でなぞり、黙り込んだ。
……本当に、そうだろうか。
自分と文哉の関係は、もう一度やり直せるのだろうか。
そのとき、スマホが鳴った。
文哉のキッズスマートウォッチからだ。
「出て。きっと、いないって気づいたんだよ」
田中奈々が言う。
「スピーカーにして」
杏璃は指をぎゅっと握り、通話を取った。
「ママ」
文哉が妙にお利口な声で呼ぶ。
「……うん」
胸の奥に、かすかな期待が灯る。
「どうしたの?」
「相談があるんだけど……熊元友里絵おばさん、これから家にもっと泊まってもいい?」
文哉は少し考えてから、甘い声で続けた。
「ママの部屋って広いし日当たりいいじゃん。熊元友里絵おばさんに譲ってあげてくれない?」
杏璃は血の気が引いた。
「じゃあ、私はどこに住むの?」
文哉は想定外だったのか数秒黙って、それからどうでもよさそうに言った。
「家、部屋いっぱいあるじゃん。ママはどこでもいいよ。でも熊元友里絵おばさんは違う。広い部屋に慣れてるんだもん」
「大原文哉……自分が何言ってるか、分かってる?」
電話の向こうが静かになった。
やがて文哉が小さな声で言う。
「ほらね……ママって、いつもぼくのこと考えないで、自分のことばっか!」
杏璃は「ぱん」と通話を切った。
スマホを握ったまま、怒りと寒さで全身が震える。
田中奈々も言葉を失っていた。
「奈々」
杏璃は声を冷やして言った。
「弁護士探して。離婚協議書を作って。文哉の親権、いらない」
田中奈々はもう止めなかった。
「……分かった。すぐ動く」
そう言って寝室へ入っていく。
杏璃はひとりでリビングに座った。ほどなく、また着信。
文哉だと思って取った瞬間――慈しむような男の声がした。
「杏璃? 福島だ」
杏璃が息をのむ。
「福島先生……?」
福島教授は笑みを含んだ声で言う。
「アンダーソン氏が昨日、国内のデザインサミットに来てね。君のことをまた話題にしていた。もう一度、連絡できないかって」
一拍おいて、ため息が混じる。
「家庭の事情は分かっているが……君の才能を埋もれさせるわけにはいかない。アトリエは今でも席を空けている。これで断ったら……」
杏璃はスマホを握り、指先が白くなる。
アンダーソンのいるアトリエは世界屈指。
三年前、教授が強く推薦し、ポートフォリオを見た相手が即座に招待状を送ってきた。
その頃、文哉は幼稚園に入ったばかりで、しょっちゅう熱を出した。
大原晴樹は言った。
「子どもが小さい。母親がそばにいるべきだ」
彼女は迷いもせず、招待を断った。
――五年。
愛してくれない男のために。必要としない家のために。
夢を捨てて、息子にさえ嫌われる姿になった。
もう、いい。
杏璃は思う。
本当に、もう十分だ。
深く息を吸い、目を開けたとき、瞳は澄み切っていた。
「福島先生。アンダーソンさんにお伝えください」
一度だけ言葉を選び、はっきり続ける。
「……行きます」
