第3章

「本当か?」

電話の向こうで福島教授の声が弾けた。

「よし、すぐアンダーソンさんに話を通す!」

通話が切れたあと、杏璃の胸に、説明のつかない安心感が満ちてくる。

これから先――彼女は誰かの母でも、誰かの妻でもない。

ただ、杏璃として生きる。

翌朝。

文哉は眠たげに上半身を起こし、目をこすりながら呼んだ。

「ママ……起きる……」

返事はない。

もう一度呼んでも、静けさだけだった。

文哉は口を尖らせ、ひとりでベッドを降りる。廊下に出ても、どこにも杏璃の気配がない。

胸の奥に、妙なざわめきが湧いた。

どたどたと階段を駆け下りる。

キッチンにはいつもの匂いがなく、テーブルには牛乳もパンも並んでいない。

……何もない。

文哉はぽかんと食卓の前に立ち尽くし、小さな顔いっぱいに困惑を浮かべた。

物心ついた頃から、朝ごはんは毎日ママが用意してくれたのに。今日は――。

理由もなく、少しだけ寂しい。

「文哉?」

階段を下りてきた大原晴樹が声をかける。

「パパ」

文哉は振り向いた。

「ママ、朝ごはん作ってない」

大原晴樹も空っぽのテーブルに目を留め、腕時計を見る。7時20分。

いつもならこの時間、杏璃が文哉を起こして身支度させ、二人で朝食をとっているはずだった。

大原晴樹は眉をひそめ、胸の違和感を押し込める。

「外で食べる」

結局、文哉は幼稚園に5分遅刻した。

教室の前で先生が首をかしげる。

「文哉くん、今日はどうして遅れたの?」

文哉は俯いたまま黙り込み、小さな拳をぎゅっと握った。

――いつもは一番に来てたのに。

全部ママのせいだ。

今日はママと口をきかない。

ママがちゃんと機嫌を取ってくれない限り、ぜったい話さない。

午後3時半。

文哉がランドセルを背負って教室を飛び出すと、門のところにいたのは熊元友里絵だった。足取りが、少しだけ鈍る。

熊元友里絵が笑って手を振る。

「文哉、こっち!」

手を引かれながら歩き、文哉は顔を上げた。

「今日ね、工作の時間に、すっごくきれいな絵描いたんだ」

「うん」

熊元友里絵はスマホを見たまま、顔も上げない。

「それで体育で走ったの。二位だったよ!」

「へえ」

「クラスの杉原立樹が週末ディズニー行くんだって。ぼくも行きたい……」

熊元友里絵は聞こえていないみたいに、今度は返事もしなかった。

文哉の目の光が、少しずつしぼんでいく。

前は、こういう話をママにしてた。ママはちゃんと聞いてくれたのに……。

なのに、もう二日もママに会ってない。

そのとき、目の前にトランスフォーマーの玩具がすっと差し出された。

「ほら。買ってあげた」

文哉の目がぱっと輝く。

「わあ! 最新だ!」

「好き?」

「好き! ありがとう!」

玩具を抱えた瞬間、さっきの小さな寂しさは、どこかへ飛んでいった。

ママがいたら、玩具ばっか買っちゃだめって言う。甘やかしすぎだって。

やっぱり友里絵おばさんのほうがいい。

ママがいないって、最高!

大原グループ・社長室。

大原晴樹はジャケットに広がるコーヒーの染みを睨み、眉間に皺を寄せた。

午後の重要会議で、取引先の代表が手を滑らせ、コーヒーがそのまま彼にかかったのだ。

「大原社長、すぐ新品を買いに走らせます」

秘書が踵を返す。

「いい」

大原晴樹は時間を見る。

「家から持ってこさせる」

杏璃に電話をかけた。

5、6回鳴って、ようやくつながる。

受話口から聞こえたのは、冷えた女の声だった。

「もしもし」

「スーツにコーヒーがついた」

大原晴樹は用件だけを投げる。

「新しいのを会社に持って来い。グレーのやつ。ネクタイは青」

数秒の沈黙。

それから杏璃が言った。

「自分でやれば? 手、付いてないの?」

大原晴樹が固まる。

「……何だと?」

「着替えひとつ、誰かに世話してもらわないとできないの?」

「お前――」

通話が切れた。

大原晴樹はスマホを握ったまま、しばらく理解が追いつかなかった。

結婚して五年。杏璃はずっと従順で、言い返したことなど一度もない。

今日は薬でも飲み間違えたのか?

乾いた笑いが漏れ、苛立ちまぎれにネクタイを乱暴に引く。

……これは一度、ちゃんと話をしないといけない。

夜。

田中奈々は杏璃を連れてクラブへ入った。

店内に足を踏み入れるなり、田中奈々が目を輝かせる。

「ねえねえ、ここさ、新しく入ったバーテンダーが超イケメンで、腕も一流で――」

言い終える前に、杏璃の背中にぶつかった。

「なに?」

田中奈々が不満げに顔を上げ、杏璃の視線の先を追って息を呑む。

二階の階段口。

大原晴樹が、スーツ姿の男たちを連れて降りてくるところだった。

すっと伸びた背筋。冷たい横顔。クラブの照明が輪郭を際立たせる。

杏璃は、ここで彼に会うなんて思ってもいなかった。

その瞬間、大原晴樹も彼女たちに気づき、わずかに目を見開く。だがすぐに冷静さへ戻った。

――やっぱり我慢できなかったか。

今夜ここで商談があると知って、追いかけてきたんだろう。

彼はその場に立ち、杏璃が近づいてくるのを見つめる。

どうせあとで、謝る顔が浮かんでいた。

「杏璃、お前――」

「どいて」

杏璃はその端正な顔をまっすぐ見て、淡々と言った。

「邪魔」

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