第4章 友里絵おばさんをいじめるのは許さない!
大原晴樹は言葉に詰まった。我に返ったときには、杏璃がすでに身を翻し、彼の横をすり抜けていた。
余計な視線ひとつ、くれない。
大原晴樹の表情が、そのまま顔に貼りついた。目の奥に、わずかな驚き。
田中奈々は堪えきれず、くすっと吹き出しそうになりながら小走りで追いかけ、振り返って手をひらひらさせる。
「大原社長、お忙しいところ失礼しまーす。私たち、お構いなく!」
大原晴樹はその場に立ち尽くし、杏璃の背中がカウンターのほうへ消えるのを見届けて、眉間に皺を寄せた。
「大原社長……?」
隣の取引先の代表が気まずそうに尋ねる。
「今の方と、お知り合いで?」
「知らない。放っておけ」
声音は冷たい。――それなのに、その後の三十分。大原晴樹の意識は明らかに散っていた。
視線が勝手にカウンターへ流れる。
杏璃は今日、少し出過ぎたワンピースを着ていた。腕も胸元も背中も惜しげなく出て、きれいなラインがそのまま浮く。
いつも結っていたポニーテールもほどけ、ゆるく波打つ髪が、気だるい色気を足していた。
……妙に、知らない女みたいだった。
そして杏璃は笑っている。
若いバーテンダーに向けて。
大原晴樹の指がグラスを強く握り、酒がかすかに揺れた。
「晴樹?」
ぼんやりしていた耳に、聞き慣れた女の声が落ちる。
大原晴樹が反射的に振り向くと、熊元友里絵が白いワンピース姿で近づいてきた。口元に柔らかな笑みを浮かべて。
「偶然ね。ちょうど友だちと合流するところだったんだけど、あなたに会えるなんて」
そう言いながら、当然みたいに隣へ腰を下ろし、取引先の男へ視線を移す。
「杉原社長ですよね。お噂はかねがね」
笑みを含んだまま手を差し出す。
二言三言、挨拶を交わした。――いつもなら大原晴樹が場を回す。だが今日は、どうにも上の空だった。
熊元友里絵はすぐ気づく。彼の視線が、何度もカウンターへ滑っていることに。
同じ方向を追って、目を細めた。
「あれ……杏璃じゃない? 挨拶しないの?」
瞳の奥に一瞬、暗い影が走り、視線を落としてから、軽く言う。
「バーテンダーとずいぶん仲良し。常連さんみたいね」
大原晴樹は黙ったまま。
熊元友里絵は彼の顔色をうかがい、探るように続ける。
「晴樹、杏璃の悪口を言いたいわけじゃないの。ただ……彼女、今もあなたの奥さんでしょう? ああいう場で知らない男の人とあんなふうだと……外に出たら、あなたの評判に響かない?」
一拍おいて、ため息を落とす。
「私のことであなたに不満があるのかもしれないけど、だからって、そんなに捨て鉢にならなくても……」
大原晴樹は返事をしない。
ただ、カウンターだけを見ていた。
杏璃の目は、久しく見たことのない輝きを宿している。
若いバーテンダーが、彼女の手を取ってシェイカーの振り方を教えていた。
大原晴樹の位置からは、二人がほとんど密着しているように見える。
……ふっと、胸の奥が熱を帯びた。
大原晴樹は立ち上がった。
「晴樹?」
熊元友里絵も慌てて立つ。
「ちょっと、落ち着いて……」
大原晴樹は大股でカウンターへ向かった。
――カウンター。
若いバーテンダーが優しく笑う。
「そう、それです。もう少し手を安定させれば完璧。岩崎さん、センスありますね」
田中奈々が面白がって煽る。
「杏璃、いっそバーテンダーに転職しちゃえば?」
杏璃は珍しく肩の力を抜き、笑った。
「弟子にしてくれるならね」
その瞬間、頭上に影が落ちた。カウンターの光が遮られる。
「杏璃」
大原晴樹の低い声には、露骨な怒気が混じっていた。
杏璃の手が止まる。
ちらりと彼を見て、無表情のまま視線を戻す。再びシェイカーを振り始めた。
ただ顔色だけが沈み、声も冷たい。
「なにか用?」
「来い。外に出る」
大原晴樹は声を抑えた。
「暇じゃない」
「杏璃――」
「晴樹、そんなに怒鳴らないで」
熊元友里絵が割って入り、大原晴樹の腕に絡みつく。二人の間に立ち、宥めるような声。
「杏璃、こんなふうにしないで。晴樹も心配してるの。ここ、雰囲気が……あなたが来る場所じゃないよ」
「気分が落ち込んでるなら、私と話せばいいのに。わざわざ自分を傷つけるみたいなことしなくても……」
そう言いながら、杏璃の腕を掴もうとする。
杏璃は反射的に嫌って手を引いた。
次の瞬間。
熊元友里絵が、まるで強く突き飛ばされたみたいに、よろよろと後ろへ何歩もたたらを踏んだ。
「友里絵!」
大原晴樹が慌てて支え、カウンターから落ちるのを防ぐ。
「杏璃!」
大原晴樹の顔が強張る。
「いい加減にしろ。友里絵はお前のために言ってるんだ。ありがたく思わないならせめて、押すな。謝れ!」
杏璃の視線が、大原晴樹の手――熊元友里絵の腰に回ったそれに吸い寄せられる。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
それでも杏璃は唇を吊り上げ、冷たく笑う。
「私が押したって、どの目で見たの?」
大原晴樹が眉を寄せる。
「俺が見た――」
杏璃は手を上げて遮った。
「はいはい。そこまで言うなら、汚名だけ被る気はないわ」
次の瞬間。
誰も反応できない速さで、杏璃の腕がしなった。
熊元友里絵の頬を、平手が打つ。
「ぱん!」
乾いた音が店内に響く。
杏璃は手を軽く振り、気だるげに言った。
「ごめんなさいね、熊元さん。わざとじゃないのに、ちょっと強く当たっちゃった。許してくれる?」
熊元友里絵は頬を押さえ、信じられない顔で杏璃を見た。
涙が一気に溢れ、頬を伝う。
大原晴樹は熊元友里絵の顔を確かめ、怒鳴った。
「お前、正気か!?」
杏璃は一語ずつ言い放つ。
「大原晴樹、飼い犬の躾くらいしなさい」
「次も私の前で芝居を打つなら、また叩く。遠慮なくね」
大原晴樹は言葉を失った。
こんな杏璃を、見たことがない。
記憶の中の彼女はいつも温順で、黙っていて、ときに卑屈ですらあった。
それなのに今の彼女は全身に棘をまとい、他人を見るような冷たい目をしている。
熊元友里絵も呆然とし、遅れてしゃくり上げる。
「杏璃……私のこと恨んでるのは分かる。でも……悪意なんて……どうして……」
「黙れ」
杏璃がたった一言吐いただけで、熊元友里絵の泣き声が妙に途切れた。
そのとき、入口のほうがざわついた。
「ぼっちゃん、だめですよ、入っちゃ――」
「どけ! 友里絵おばさんに会うんだ!」
その声に、杏璃の身体が凍りつく。
次の瞬間、小さな影が人混みを突っ切り、一直線に熊元友里絵へ飛びついた。
「友里絵おばさん!」
文哉が熊元友里絵の腰にぎゅっと抱きつく。
涙の跡と赤く腫れた頬を見た途端、小さな顔がぐしゃりと歪んだ。
そして杏璃を睨み、思い切り押した。
「友里絵おばさんをいじめるな!」
