第5章 心を刺される痛み
文哉は熊元友里絵の前に立ちふさがり、小さな顔を怒りで真っ赤にして、杏璃を敵でも見るような目で睨みつけた。
力そのものは大したことがない。なのに、杏璃は全身がこわばって動けなくなる。
――もう分かっていた。
この子は、自分よりも熊元友里絵のほうが好きなのだと。
それでも胸の奥が、細い針でびっしり刺されるみたいに痛む。
杏璃は俯き、目の前の子どもを見下ろした。
十月十日腹に宿し、苦労して産み、必死に育ててきた――自分の子。
いつか、この子が別の女を守るために、自分を仇のような目で見る日が来るなんて。
そんなこと、考えたことすらなかった。
言葉が出ない。
顔を上げると、天井の照明が眼球を刺し、目の奥がつんと痛んだ。酸っぱくて、腫れぼったい。
そのとき熊元友里絵がしゃがみ込み、文哉をぎゅっと抱き寄せる。
まるで次の瞬間、杏璃が発狂してこの子を殴りつけるとでも言うように――守る姿勢で。
「文哉、どうして来ちゃったの? 車でおとなしく待ってなさいって言ったでしょう? あちこち走り回ったら危ないよ」
声は甘く、やわらかい。瞳には愛情と心配が満ちている。
けれど杏璃を見た瞬間だけ、そこに得意げな光がちらりと走った。
文哉にそんな大人の計算が分かるはずもない。
鼻をすすり、小さな指で杏璃を指さして、悔しそうに叫ぶ。
「こいつがいじめたんだ! ぼく見たもん! 悪い女だ! もうママなんていらない!」
続けて、熊元友里絵の頬をそっと撫で、囁くように訊く。
「痛い?」
熊元友里絵は文哉の頭を撫でて笑った。
「ばかね、痛くないよ。ただ……ママのこと、そんなふうに言っちゃだめ。ママは……ちょっと気分が悪かっただけ」
「次は気をつけるね。ママを怒らせないようにする」
――その一言で、杏璃は「理不尽で短気な女」になった。
案の定、文哉の怒りはさらに膨れ上がる。
「ぼく、そんなママいらない! なにもできないくせに、恥かかせるだけ!」
大原晴樹が傍で顔を曇らせ、まず息子の肩を軽く叩くと、杏璃に視線を向けた。
「杏璃。なぜ急にこうなったかは知らないが……見ろ。子どもですら、お前より分別がある」
「大原の奥様って椅子に座って安心したか? だから本性が出たのか」
杏璃はゆっくりと目を上げ、静かに彼を見返した。
「あなたは一度も、私にそんなふうに思わせるだけの――昨夜、あなたに送った……」
「杏璃!」
大原晴樹が遮る。
「最後に言う。謝れ」
「誠意を見せれば、今回だけは許してやる」
杏璃の頭に血が上った。
「私が何をしたの? なんで謝るの!」
「まだ分からないのか?」
大原晴樹が一歩詰める。上に立つ者の圧が、杏璃の胸元を押し潰すように迫った。
「普段からそうやって子どもを教育してきたのか。だから懐かれないんだ」
その言葉が、杏璃の胸にもう一本、刃を突き立てた。
横で田中奈々が拳をぎゅっと握る。
本来なら口を挟むべきじゃない。けれど、友人がこんなふうに踏みにじられるのを見ていられなかった。
「大原さん、いい加減、筋を通してもらえます?」
「私たち、ここで普通にカクテル習ってただけです。最初に突っかかってきたの、そっちでしょう」
「外で好き勝手して、女をとっかえひっかえ。それは許されて、杏璃が息抜きするのはだめ?」
「奥様奥様って言うなら、あなたのやってること、夫のすることですか? 杏璃も当時よっぽど見る目がなかったんですね。あなたみたいなのを好きになるなんて」
大原晴樹は冷たく返す。
「俺の人間性を、お前に評価される筋合いはない」
「……っ」
熊元友里絵は周囲の視線が集まっているのを察し、唇を噛んだ。
そして絶妙なタイミングで大原晴樹の腕にすがり、首を振る。
「もう、やめて。晴樹、杏璃さんを追い詰めないで」
「私、本当に平気……全然痛くないの。全部私のせい。私が余計なこと言わなければ、杏璃さんも怒らなかった」
声には微かな嗚咽が混じる。いじめられてもなお、いい人でいようとする被害者の顔。
文哉は頬を膨らませ、杏璃を睨んだ。
「ほら見て! 友里絵おばさん、叩かれてもママのことかばってる!」
杏璃は小さく息を吐いた。
大原晴樹など、どうでもいい。この結婚は最初から無理を重ねたものだ。彼に期待など残っていない。
でも文哉は違う。
彼女がすべてを注ぎ、掌で大事にしてきた宝物――見捨てられるはずがない。
「文哉、ママの話を聞いて」
できるだけやわらかい声にする。
「どんなことも、見た目だけで決めちゃだめ。ママは誰もいじめてないし、理由もなく人を叩いたりしない」
「彼女が先に――」
「聞かない! 聞かない!」
文哉は両耳を塞ぎ、ぶんぶん首を振った。小さな顔いっぱいに嫌悪が広がる。
「ママは悪い人! 友里絵おばさんに嫉妬してるだけ!」
「パパが友里絵おばさんを好きなのが気に入らないんだ!」
「出てって! もう見たくない!」
杏璃の言葉は喉で凍りついた。
熊元友里絵が文哉の背中をぽんぽんと撫で、やさしい声で遮る。
「ほら、文哉。ママに意地悪しちゃだめ。ママは一時的に混乱してるだけ。私たちは責めないであげよう」
軽い一言で、濁りきった水がさらに掻き回される。
野次馬の小声が、針みたいに耳へ刺さった。
「この子、えらいね。ママ守ってる」
「違うよ、緑のドレスの人が実母だよ」
「じゃあ母親失格だな。息子が外の女かばうって、よっぽどだ」
杏璃は、自分でも笑ってしまいそうだった。
胸が詰まり、息ができない。
静かに、目の前の三人を見つめる。
大原晴樹は熊元友里絵を庇い、その瞳には痛々しいほどの愛護。
杏璃へ向けられるのは、苛立ちだけ。
文哉は熊元友里絵に寄りかかり、いちばん近い人みたいに甘えている。
どう見ても――彼らは三人家族だった。
そして自分は、余分な他人。
杏璃は目を閉じた。
開いたとき、眼底の感情はすべて死んでいた。
もう何も言わない。
これ以上口を開けば、ただ自分が惨めになるだけだ。
「奈々、行こう」
田中奈々がすぐに杏璃の腕をがっちり支え、大原晴樹たちを睨みつける。怒りで全身が震えていた。
「杏璃、こんなクソみたいな連中、相手にするな。行くよ!」
二人が歩き出した、そのとき。
「待て――」
大原晴樹が一歩追い、何か言いかける。
だが隣で「ん……」と小さな呻き声がした。
熊元友里絵がよろめき、今にも倒れそうになる。
大原晴樹が慌てて支え、文哉も駆け寄る。
「友里絵おばさん、大丈夫? 病院行く?」
杏璃は、ほんのわずかに止まりかけた足を、二度と緩めなかった。
歩幅を広げ、さらに速くなる。
ここを出る。
彼女はこの場所を、心身ともにボロボロにされるだけだったこの『家』を、ついに去るのだ。
