第6章 お母さんがいてくれたらいいのに

杏璃と田中奈々は、前後してクラブを出た。

夜風が頬を叩く。ひやりとした冷たさが、ぐちゃぐちゃに絡まった思考をほんの少しだけほどいてくれて、胸の奥に詰まっていた重たい塊も、わずかに緩んだ。

「杏璃……」

田中奈々が手を握り、小さな声で探るように尋ねる。

「大丈夫?」

「平気」

杏璃はふっと笑った。

「向こうが私をいらないって言うなら……私も、いらない」

田中奈々はその笑い方がいちばん痛いと知っていて、胸の奥がきゅっと縮んだ。

杏璃は昔からそうだ。つらいほど平気な顔をする。弱さを見せない。

岩崎家が傾いたときも、父親が入院したときも、泣きもせずに、ひとりで全部を背負った。

「帰るな。今夜はうち来な」

田中奈々が肩を抱き寄せる。

「私が一緒にいる。ちゃんと話そ」

――

大原晴樹は、まず熊元友里絵を病院へ送り、看護の手配まで済ませてから文哉を抱えて帰宅した。

時計はすでに0時近い。

文哉は車の中でぐっすりだったはずなのに、家に着くと少し目が冴えたらしく、ソファにちょこんと座ったまま、どこか落ち着かない顔をしている。

「文哉、どうした。寝ないのか」

「パパ……ママ、ぼくのこと捨てた?」

文哉が不安そうに見上げてくる。

大原晴樹は言葉に詰まり、隣に腰を下ろして大きな手で頭を撫でた。

「捨てるわけないだろ。お前も、この家も……ママが必死で手に入れたものだ。簡単に手放すはずがない」

少し間を置いて、淡々と言い添える。

「頭を冷やせば帰ってくる」

文哉はこくんと頷き、それから唇をきゅっと結んだ。

「でもママ、友里絵おばさん叩いた! 友里絵おばさん、あんなにいい人なのに……なんで叩いたの?」

大原晴樹は微かに目を伏せた。

杏璃が去っていった背中が、勝手に脳裏に浮かぶ。理由のない苛立ちが胸に溜まった。

「俺にも分からない。もう遅い、寝ろ」

文哉を抱き上げ、二階へ向かう。

「明日、運動会だろ」

「運動会」と聞いて、文哉の目がぱっと明るくなり、すぐにしぼんだ。

「でも友里絵おばさん、具合悪くなっちゃったんだよね……明日来られるのかな。全部ママのせい!」

大原晴樹は短く笑って、文哉を小さなベッドへ寝かせた。

「来る。心配するな。友里絵おばさんはお前が大好きだ」

文哉は期待を抱えたまま目を閉じる。

ママが明日ちゃんと友里絵おばさんに謝ったら――自分も広い心で、一緒に行ってやってもいい。

そんなことを、子どもなりに考えながら。

――

翌朝。

目覚ましのけたたましい音で、文哉はむくりと起き上がった。

頭が重い。目も、のりで貼りつけられたみたいに開かない。

癖で「ママ」と呼んだが、返事はなかった。

しばらく呆然としてから、ママがいないのを思い出す。

文哉はもぞもぞとベッドを降り、洗面所へ行って顔を洗い、歯を磨き、服を着替えた。

廊下へ出る。

階下はしんと静まり返り、いつもの湯気の匂いも、焼きたての香りもない。

階段口で立ち止まった瞬間、なぜだか、降りたくなくなった。

「文哉?」

書斎から出てきた大原晴樹はスーツ姿だった。会社へ行く支度を終えた顔で言う。

「支度できたか。行くぞ、送る」

「でも運動会、8時半から……」

「高橋に付き添わせる」

大原晴樹は腕時計を見た。

「会社で大事な会議だ。抜けられない」

文哉の顔がみるみる曇る。

「友里絵おばさんが一緒に行くって……」

「急用で来られない」

大原晴樹は車の鍵を取った。

「先に送る。高橋が待ってる」

文哉は肩を落とし、ちいさく頷いた。

「……うん」

――

同じころ、城東エリアのクリエイティブ・パーク。

杏璃は、芸術の匂いがする建物の前に立ち、胸いっぱいに息を吸い込んだ。

「行こ」

田中奈々が肩を軽く叩き、明るく笑う。

「ここが、新しい人生のスタート地点!」

杏璃も笑い返し、強く頷く。

扉を押し開けると、コーヒーと紙の匂いがふわりと押し寄せた。

受付の女性が顔を上げ、杏璃を見るなり目を輝かせる。

「岩崎さんですね?」

杏璃が頷く。

「福島教授から伺っております。3階へどうぞ。アンダーソンさんがお待ちです」

エレベーターを降りた瞬間、杏璃は足を止めた。

広々とした明るいオープンスペース。十数人が忙しなく動き、モニターに向かう者、案をぶつけ合う者、模型を組む者がいる。

「杏璃!」

懐かしい声がして振り向くと、福島教授が中から出てきた。満足げな笑み。

「先生」

「紹介しよう」

福島教授は杏璃を連れて奥へ入る。

「みんな、手を止めて。この人が岩崎杏璃だ。アンダーソンさんが三年前から欲しがっていた人材だよ」

「うわ!」

「本物だ!」

「先輩、よろしくお願いします!」

次々に声が飛び、杏璃は一瞬、現実感が薄れた。

こんな空気を吸うのは、どれほど久しぶりだろう。

熱気、元気、創造の匂い。

目の奥がじんと熱くなる。息を整え、笑って握手を返そうとした、そのとき――背後から名を呼ばれた。

振り向くと、人が自然に道を開ける。

五十代の金髪の男が、黒いトレンチコート姿で歩いてきた。穏やかな笑みのまま、少し離れたところから手を差し出す。

「アンダーソンさん」

杏璃は反射的に背筋を伸ばした。

「マイクでいい」

男――マイクが手を差し出したまま言う。

「ようこそ。今日を三年待った」

杏璃はその手を握り返す。掌がほんのり熱い。

「この機会を、ありがとうございます」

「君が自分に与えた機会だ」

マイクは真剣な目で言い、ふっと笑った。

「君の作品はずっと追っていた。この数年、新作がなくてもね。以前の作品だけで、才能がはっきり見える」

少し間を置き、柔らかく続ける。

「……あの頃の君でいてほしい」

杏璃は鼻の奥がつんとした。強く頷く。

「……変わりません」

同僚たちが彼女を囲み、案内しようとする。

杏璃は、溺れた人間がようやく水面に顔を出し、息を吸い込んだみたいな気分だった。

認められる、というのは――こういうことなのか。

そのとき、スマホが鳴った。

表示を見た瞬間、杏璃の顔色が変わる。

文哉の幼稚園からだ。

指先が冷たくなりながら通話を取ると、向こうの声は切迫していた。

「文哉くんのお母さまですか。中村です。文哉くんが運動会の最中に倒れて、いま病院で処置しています。状態がよくありません。すぐ来てください。住所を送ります」

杏璃の手がぎゅっと強張る。声も上ずった。

「どうして……どうして倒れたんですか? さっきまで元気だったのに……」

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