第7章 自分がまさか何も知らないとは

電話の向こうで、中村先生が焦った声を上げた。

「詳しい状況は、私もはっきりとは……。運動会で、ほかの子が何か言ったみたいで。文哉くんがカッとなって、そのまま急に倒れてしまって……」

「学校の医者が応急処置はしたんですが、意識が戻らないんです。いま市立小児病院で救命処置中で……お父さまにはもう連絡しました。お母さまも、すぐ来てください」

「……分かりました。すぐ行きます!」

杏璃は通話を切った。顔色がさっと失せ、指先が止めどなく震える。

もう、関わらないと決めたはずなのに。

相手は――自分の子どもだ。完全に突き放せるわけがない。

「どうしたの?」

田中奈々が異変に気づき、慌てて覗き込む。

「文哉が……病院。救命処置中だって」

田中奈々は息をのむ。

「そんな……! 私も行く。一緒に!」

杏璃は答える余裕もなく踵を返し、外へ駆け出した。二歩、三歩――けれど途中でふと足を止め、振り返る。

アンダーソンの前で、視線が揺れる。赧然と、申し訳なさと。

初日なのに――。

「マイクさん、ごめんなさい、私……」

「行っておいで」

アンダーソンは穏やかに頷いた。

「子どもが先だ。仕事は急がない」

杏璃の目の奥が熱くなる。小さく頭を下げ、振り向きもせずエレベーターへ飛び込んだ。

――市立小児病院、救急。

廊下を駆け抜け、救急外来の前へ飛び込んだときには、息がうまく吸えなかった。

ガラス扉の向こうを見ようとして、ようやく視界に入ったのは――椅子に沈み込むように座り、肩を落とした高橋の姿。

「高橋! 中は……どうなってるの!」

「奥様!」

高橋は弾かれたように立ち上がる。

「まだ中です。先生が診ています」

顔いっぱいに悔恨が滲み、今にも泣き出しそうだった。

「私のせいです……。ボールを拾いに行って、ほんの少し目を離した、その隙に……」

杏璃は耳を貸していられなかった。背伸びしてガラス越しに覗くが、中の様子は見えない。

「……どうして倒れたの。さっきまで普通だったのに」

高橋が苦しそうに息を吐く。

「先生から聞いた話ですが……文哉くん、ほかの子と口げんかになったそうで。みんな親が来てるのにって……文哉くんに『ママに捨てられた』って言った子がいて……」

杏璃の胸がぎゅっと締めつけられる。

「怒って言い返して、子ども同士で手が出て……押されて、頭を器具にぶつけたと……」

――ママに捨てられた。

その言葉が、呼吸を凍らせた。

たった一度、欠席しただけなのに。

罪悪感と、名づけようのない痛みが一気に押し寄せ、杏璃を丸ごと飲み込んでいく。

「杏璃! 文哉はどうなの!? って、あんた何してたのよ、なんでちゃんと見てないの!」

背後から、鋭い声。

杏璃の背筋が粟立った。

振り返り、喉の奥で言葉を絞り出す。

「……お母さん。どうしてここに」

「孫が大変なら来るに決まってるでしょ!」

岩崎蘭子は廊下の椅子にどさりと腰を下ろし、顔を覆って泣いた。

「この数年、家で何もせずに子どもだけ見てたくせに! それでこの有様!?」

杏璃は反論できなかった。

父が亡くなり、岩崎家が傾いたあの日から。

母の期待は、まるごと杏璃に乗せられた。大原晴樹をつかまえて、家の体面を保て、と。

もし離婚のことを知ったら――。

杏璃は目を伏せ、爪を掌に食い込ませた。

いま責めても、どうにもならない。

ただ待つしかない。時間だけが、じりじりと削れていく。

やがて、大原晴樹が慌ただしい足取りで現れた。隣には、熊元友里絵。

「どうだ。医者は?」

大原晴樹が眉を寄せる。

杏璃は一度だけ彼を見て、視線が自然と熊元友里絵へ滑った。

――なぜ、彼女がここに。

熊元友里絵はその目に気づき、反射的に大原晴樹の背へ身を隠す。まるで杏璃が殴りかかるとでも言うように。

岩崎蘭子は二人の空気など見えていない。杏璃の腕を勢いよく叩いた。

「晴樹、本当にごめんなさいね! 全部この子が悪いの。子どもひとり満足に見られないなんて。私が叱っといたから」

「安心して。文哉はきっと大丈夫よ」

杏璃は唇に苦笑を貼りつけた。

いつもそうだ。

母が絡めば、責められるのは決まって自分。

仕事を投げ捨てて飛んできた。怖くて、自分を責める気持ちでいっぱいなのに。

それでも――謝る側に回される。

大原晴樹もそれを当然のように受け取る。

「文哉が無事なら、責めたりはしない」

淡々と口にしながら、杏璃へ冷たい視線を投げた。

「拗ねるのも限度がある。次は気をつけろ。今日みたいなことは二度と見たくない」

杏璃が言い返そうとした、そのとき。

救急外来の扉が開いた。

医師がマスクを外し、廊下を見渡す。

「大原文哉くんのご家族は?」

「私が父親です」

大原晴樹が一歩前へ出る。

医師は頷き、重たい声で告げた。

「現時点では、ストレス性失神の可能性が高いです。加えて、もともと微熱がありました。状況は楽観できません」

廊下の空気が、一段冷たくなった。

医師は続ける。

「ただ、既往にアレルギーがあるとのことなので、さらに精査します。食物、薬剤、過去の発作など……詳しい記録はありますか」

大原晴樹が言葉を失う。答えられない。

視線が、杏璃へと向いた。

杏璃が即座に口を開く。

「落花生、マンゴー、海鮮にアレルギーがあります。特に海鮮は、少量でもだめです」

「生後八か月でA型インフルエンザに罹ってから免疫が弱くて、ほぼ毎月病院に通っていました」

さらに薬の名前が次々と出る。

どれに反応が出やすいか。副作用が強いのはどれか。常用薬と用量まで。

一切よどまない。

医師の目が鋭くなり、看護師に記録を促す。

「それから、出生時に心臓に少し問題がありました。でも成長とともに治ると言われていて」

「半年ごとに検査しています。三か月前の結果はほぼ正常でした。ただ激しい運動のあと、脈が上がることがあるので……今回の失神は頭の打撲以外に、心臓の要因も否定できないと思います」

医師は真剣そのものになり、杏璃を見る目に驚きが混じった。

「あなたが文哉くんのお母さまですね」

医師は小さく笑う。

「提供いただいた情報は非常に重要です。すぐに検査を組みます」

「……ここまで細やかに把握しているお母さまは、最近では珍しい。お子さん、きっとお母さんにべったりでしょう」

杏璃は口元を引いたが、何も言わなかった。

大原晴樹はその場に立ち尽くし、杏璃の横顔を見つめる。

胸の奥に、言葉にならないものが膨らんでいく。

自分が知らないことを、彼女は全部知っている。

自分が聞きもしなかったことを、彼女は全部覚えている。

金を渡し、大原の奥様という肩書きを与えれば、それで責任は果たしたと思っていた。

――だが今、気づかされる。

この家のことも、子どものことも。

自分は、何ひとつ知らなかった。

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