第8章 女性に乱暴するのはよくない

「……そういえば、今回のこと、責めるなら私です」

熊元友里絵がふいに口を開いた。声は涙で震えている。

「昨夜、私がケガなんてしなければ……今日は文哉くんの運動会に付き添えたんです。あの子、すごく楽しみにしてて……誰かに見てほしかったのに……」

「私がケガをしなければ、あんなふうにひとりで耐えなくて済んだ。倒れたりもしなかった……」

大原晴樹はその言葉を聞くなり、彼女の肩にそっと手を置いた。

「自分を責めるな。君のせいじゃない」

杏璃は、鼻で嗤った。

ケガ?

それはつまり、遠回しに「杏璃のせい」と言っているだけだ。ついでに、文哉が自分に懐いていることまで見せびらかして。

胸の奥がむかついて仕方ない。

「熊元友里絵。へえ、知らなかった。そんなに体が弱いんだ?」

「ビンタ一発で『ケガ』になるなら、これから歩くとき気をつけたほうがいいよ。転んだだけで半分死にそう」

熊元友里絵の顔がぴくりと引きつった。睫毛の先に涙がぶら下がり、落ちそうで落ちない。

「杏璃さん……私が嫌いなのは分かります。でも、そんな言い方……」

嗚咽を堪えた声で続ける。

「昨夜は本当に具合が悪くて、晴樹が病院まで連れて行ってくれたんです。お医者さんだって経過観察が必要だって……」

杏璃は口元を歪めた。

「経過観察? 当たり屋が成功したかどうかの?」

「杏璃」

大原晴樹が低く遮った。

「もういい。やめろ」

彼は熊元友里絵を背にかばうように立ち、眉間に深い皺を寄せる。

「文哉は今、救急の中で寝てるんだぞ。心配するどころか、この状況でそんなことを言い合う気か?」

杏璃は即座に噛みついた。

「そうだね。文哉が中にいるのに、あなたはここで“よその女”を庇って、私と喧嘩してる」

大原晴樹の顔が強張る。

熊元友里絵が慌てて彼の袖を掴んだ。

「晴樹、やめて……私が悪いの。杏璃さんの言う通り……全部、私のせい……」

そう言いながら、ふらりと体を揺らし、立っていられないふりで大原晴樹にもたれかかった。

大原晴樹は反射的に支える。

熊元友里絵は涙目のまま杏璃を見上げた。奥のほうで、かすかな得意げな光がちらつく。

「杏璃さん、怒らないで。私はただ文哉くんが心配で……」

「私が目障りなら、帰ります。今すぐ」

そう言って立ち去ろうとした瞬間、足元が崩れ、倒れそうになる。

大原晴樹が慌てて腰に腕を回した。

「動くな」

低い声。続いて杏璃へ向けた眼差しは複雑で、言葉は冷たかった。

「杏璃。気持ちにわだかまりがあるのは分かる。だが、何日もこんな騒ぎを続けて……もう十分だろ」

杏璃は笑いそうになった。

「私が、ただの駄々こねに見えてるの?」

そのとき、岩崎蘭子が不穏な空気を察して、杏璃の腕を引いた。

「もう、いい加減にしなさい! 子どもの面倒も見きれないくせに、口だけ達者になって、言い返して喧嘩して……!」

大原晴樹も畳みかける。

「確かに、俺はこれまでお前をないがしろにしたかもしれない」

「だが“大原の奥様”の立場は与えた。文哉もいる。感情でここまで拗らせるな」

「不満があるなら、文哉が落ち着いてから話せばいい」

まるで譲歩してやっているようで、結局は「杏璃が悪い」と言っているだけ。

これ以上言い合う意味はない。

杏璃は唇を結び、立ち去ろうとした。

――そのとき。

熊元友里絵の横を通り過ぎた瞬間、彼女が突然「きゃっ!」と悲鳴を上げ、身体ごと横へ倒れた。

ごつん、と鈍い音。頭が壁にぶつかり、足首も捻ったように崩れ落ちる。

あまりに唐突で、杏璃は反射的に手を伸ばした。だが次の瞬間、熊元友里絵の爪が杏璃の腕をざりっと引っ掻いた。

深い赤い筋が残る。

それでも大原晴樹は杏璃の傷など見もしない。眉をひそめ、熊元友里絵だけを抱き起こした。

「杏璃……お前、わざとやってるのか?」

熊元友里絵も目を赤くして言う。

「杏璃さん……私が嫌いでもいい。でも、押すなんて……」

杏璃は白目を剥きそうになった。

文哉のことで頭が割れそうなのに、まだこんな芝居を見せられるなんて。

「推したって言うなら、いいよ」

杏璃は冷たく笑い、言い放つ。

「じゃあ見せてあげる。これが本物の『突き飛ばす』」

手を上げた瞬間、大原晴樹が杏璃の手首を掴んだ。鋭い目。

「お前――」

「……っ!」

杏璃は痛みに顔を歪め、振りほどこうとしても動かない。

五本の指が、鉄の輪みたいに手首へ食い込む。骨が砕けそうだった。

「放して!」

大原晴樹は放さない。声は氷のように冷たい。

「杏璃。最後に言う。友里絵に手を出すな。分かったか」

杏璃の目が赤く染まる。

「いいよ。あいつがふざけなければね!」

大原晴樹の顔が鉄青になり、握る力がさらに増した。

手首には赤い輪が浮き、腕全体がぶるぶる震える。それでも杏璃は歯を食いしばり、声ひとつ漏らさなかった。

岩崎蘭子が焦って叫ぶ。

「杏璃、少しは折れなさい! 謝って済むならそれでいいでしょう。あんたが悪いんだから!」

「大原晴樹! あんた、それでも男!? 放しなさいよ!」

田中奈々がついに堪えきれず駆け込み、思いきり大原晴樹を押した。

「何やってんの! 女にそんなことして、恥ずかしくないの!?」

大原晴樹は一歩よろけ、眉を寄せる。

「手は上げてない」

「上げてない? 杏璃の手首、見てみなよ!」

田中奈々が杏璃の手を指差す。

「これでも“上げてない”って言うの!?」

大原晴樹は視線を落とし、そこで初めて、杏璃の手首にくっきり浮いた赤い痕に気づいた。

一瞬、言葉を失う。

そんなつもりは――ただ……。

「杏璃、俺は……」

「もういい」

杏璃が遮った。

「大原晴樹。偽善は聞きたくない。私たち、ここまでにしよう」

顔を上げ、彼の目を見る。

かつてそこにあった期待も、悔しさも、心痛も――今は何もない。

「離婚協議書は弁護士から会社に送る。署名したら、それで終わり」

「離婚なんてだめよ!」

岩崎蘭子が青ざめて縋りつく。

「杏璃、何言ってるの。離婚なんて、そんなの……!」

大原晴樹へ向けて必死に取り繕う。

「晴樹、真に受けないで。杏璃は今、気が立ってるだけなの」

大原晴樹は淡々と言った。

「分かってる」

当時、あれほど強引に嫁いできた女だ。離婚などするはずがない。

そう思うのに――杏璃を見る目の奥で、何かが小さく震えた。

理由のない焦りが、胸の底を刺す。

杏璃はもう彼を見なかった。

立ち去ろうとする背中へ、大原晴樹の手が伸びかける。

だが指先が触れる直前、別の手が横から割り込み、彼の手首をがっちり掴んだ。

驚くほどの力で、大原晴樹は振りほどけない。

「大原社長。女性に乱暴するのは、品のある行いではありませんよ」

低い声が背後から落ちる。

大原晴樹が振り向く。

スーツ姿の男が立っていた。背筋の通った体躯、冷たい顔立ち。眉目に、上に立つ者の気配。

「……お前か?」

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