第92章 彼女はもう自分を欺きたくない

結婚してから何年も経つのに、杏璃の中での大原晴樹の輪郭は、ずっと曖昧なままだった。たとえ新婚初夜でさえ、彼の顔をこんな至近距離で真正面から見つめたことはない。

けれど今、この男の顔は、はっきりと形を伴って杏璃の心に刻まれた。――自分がこれまで何に囚われてきたのか、ようやく分かった気がした。

大原晴樹は熊元友里絵と関係があるのかないのか、はっきりしない。なのに杏璃に対してだけは、近づいたと思えばふっと離れる、そんな距離感を保っていた。

その、たまに覗かせる優しさが厄介だった。

「あの人と私の間には、まだ可能性がある」

杏璃がそう思い込み、何年も執着してきた理由は、結局それだ。

でも...

ログインして続きを読む