第3章
恵理子視点
鍵が錠に滑り込む。ドアを押し開ける。リビングの明かりがすべてついていた。真がソファに座っている。ジャケットは脱ぎ、ネクタイは緩められ、手にはウィスキー。こんなに早く帰宅するなんて、あり得ない。
「どこにいたんだ? 三回も電話したんだぞ」
私はバッグを置いた。
「麗子のところにいただけよ。携帯、サイレントにしてたから」
彼が足早に部屋を横切り、私を強く引き寄せる。きつすぎるくらいに。
「心配した。最近のおまえ、少し様子が違うから」
彼の目を見つめ返せるくらいに、体を押し返す。
「様子が違う? 私はここにいるじゃない」
「言いたいこと、分かるだろ。ここ数日のことだ」
私がもうどれだけ遠い場所にいるか、あなたには想像もつかないでしょうね。三日前まで、私はあなたの妻だった。でも今は、ただここを去るのを待っているだけ。
私は彼の胸に身を寄せた。アルコールと、香水の匂いが混じっている。私のじゃない。
「すまない」彼の声が低くなる。「仕事をしすぎていた。埋め合わせをさせてくれ」
「あなたが謝る必要なんてないわ」
いいえ、あなたは謝るべき。全てに対して。
岡村おばさんが夕食を作ってくれた。キャンドルの灯り。ワイン。真はシャツを着替え、献身的な夫を演じている。私は彼の向かいに座り、ステーキを切る。
ナイフを置いた。
「麗子が女性向けのIT投資ファンドを始めるの。私も参加したい」
彼は顔を上げる。驚き、そして微笑んだ。
「それは素晴らしい。また外の世界に出るんだな。いくら必要なんだ?」
「五千万円」
一瞬の沈黙。彼は瞬き一つしない。
「今日中に振り込んでおくよ。必要なものなら何でも言ってくれ、恵理子」
「ファンドが何をするのか、聞かないの?」
彼はテーブル越しに手を伸ばし、私の手を取った。
「君を信じているよ。必要なものは何でも用意する、僕のものは、君のものだ。君がまた前に進もうとしてくれているのが、ただ嬉しいんだ」
僕のものは、君のもの。あなたが持っているすべては、私が築くのを手伝ったもの。そしてあなたは、私が私たちのベッドで血を流していたというのに、その金で二十二歳の女に貢いでいた。
私は微笑む。彼の手を握り返す。彼は携帯を取り出し、その場で送金手続きをした。
「完了だ。朝までには君の口座に入るはずだよ」
彼は私の指の甲にキスをした。
「君を誇りに思うよ、恵理子。こういう恵理子が好きなんだ。強くて、野心的で」
「ありがとう。すごく嬉しい」
ええ、嬉しいわ。あなたは今、自分の手で私の自由を買ってくれたのだから。
朝の光がキッチンに満ちる。コーヒーを淹れ、携帯を確認する。送金が完了していた。五千万円がそこにあった。
テーブルでノートパソコンを開き、素早くタイピングする。
青嶺大学環境保護基金。
寄付先:西園寺隼人博士、プロジェクトディレクター。
金額:五千万円。
匿名希望:はい。
隼人。五年前、もし何かあったらいつでも力になるとあなたは言った。あの頃の私は、あなたを信じなかった。真が私のすべてだと信じきっていたから。ああ、なんて馬鹿だったんだろう。
送金完了。画面を保存。閲覧履歴を削除。
別のメールが読み込まれる。鳥居からの連絡だった。
「神崎夫人、お約束の件です。新田桜子の直通番号です。先方には話を通してあります。私の名前を出してください。ご健闘を祈ります」
昨日手に入れた連絡用の別携帯を取り出し、その番号にテキストメッセージを送る。
『神崎恵理子と申します。鳥居誠一氏のご紹介です。ご相談したいことが。可能であれば明日お願いできますでしょうか』
返信は即座に来た。
『神崎夫人。明日午後二時。私のオフィスへ。お一人で。すべてをお持ちください』
メッセージを削除する。携帯の電源を切り、真が絶対に触らない本の陰に隠した。
窓の外には、天城区の街並みが広がっている。あの街のどこかで、詩乃はきっと彼の電話を待っているのだろう。お腹に手を当て、彼が産むことを決して許さない赤ちゃんのことを夢見ながら。
彼女を憎むべきなのだろう。でも、憎めない。彼女もまた、彼に嘘をつかれている、ただの女なのだから。
翌日の午後、私は新田桜子のオフィスに足を踏み入れた。五十七階、公園を見下ろす眺望。彼女は想像通りの人物だった。シャープなスーツに、それ以上に鋭い眼差し。
「神崎夫人。お座りください」
私は封筒を彼女のデスクの上で滑らせた。写真。銀行の記録。病院での録音データ。詩乃のメッセージ。すべて。
彼女はそれに目を通していく。表情は一切変わらない。すべてを見終えると、彼女は顔を上げた。
「これは完璧です。不貞行為、経済的欺瞞、暴力の証拠。彼の資産の四割は、たやすく取れるでしょう」
「彼のお金は要りません。ただ、解放されたいだけです」
彼女の眉が片方上がる。
「ほとんどの依頼者は復讐を望みますが」
「私が欲しいのは自由です。同じことではありません」
彼女はゆっくりと頷く。その目には敬意が宿っていた。
「来週、申し立てを行います。調停離婚での財産分与請求です。結婚前からの資産とその運用益を取り戻し、弁護士費用もカバーさせます。二か月以内には決着がつくでしょう」
「そして、終わるまで彼には知られない?」
「書類が届くまでは。その頃には、あなたはもういない」
私は立ち上がり、彼女と握手する。
「ありがとうございます」
「神崎夫人?」ドア際で彼女が私を呼び止めた。「何を計画しているにせよ、急いでください。彼のような男は、簡単には手放しませんよ」
本を読んでいると、携帯が震えた。知らない番号。危うく削除するところだった。
『ベッドの中じゃ退屈だって言ってた』
携帯を握る手に力が入る。
『おまえのせいで、自分らしくいられないんだって』
私は震えもしない。泣きもしない。スクリーンショット。保存。
『彼の子を妊娠してるの。あなたはただのつなぎよ』
私は立ち上がり、窓辺へ歩く。自分の姿をじっと見つめる。
『株式公開の後に離婚するって。知らなかった?』
『来月、もっと広い部屋に引っ越すの。お金、出してくれてありがとうね』
『自分が物足りないって知って、傷つく?』
私は一言だけ返信する。
『彼はあげる。私はもう終わりだから』
三つの点が現れては消え、また現れる。
『どういう意味?』
私は答えない。番号をブロックする。
その夜、階下でドアが開く音がした。
「恵理子? いるか?」
私は携帯をロックし、階段へ向かう。笑顔を顔に貼り付けて。
「ここにいるわ。早かったのね」
彼は私に向かって階段を上ってくる。引き寄せられてキスをされる。コーヒーと嘘の味。
「夕食にしよう。二人きりで」
私たちはテーブルにつく。彼が今日一日のこと、どこかの投資家の話をする。キャンドルの灯りの向こうから、彼の手が私の手を求めて伸びてくる。彼は必死に、今この場にいる自分を演じようとしている。
「今夜は静かだな」
「こうしていられるのが、ただ嬉しいのよ」私は彼の手を握り返す。「素敵だわ」
あなたは嘘をつくのがなんて上手なのかしら、と考えている。
夕食後、リビングで彼は私を抱き寄せた。その両手が私の顔を包む。
「この数ヶ月、おまえがいなくて寂しかった。これが恋しかったんだ。僕たちの、この時間が」
彼はキスをする。最初は優しく、そして深く。腰に手が回される。
「こっちへ」
私たちは寝室へ移動する。彼は優しい。敬虔ですらある。自分自身に何かを証明しようとしているかのようだ。
「愛してるよ、恵理子。分かってるだろ? 君は僕の全てだ」
「分かってる。私も愛してるわ」
これが、心が死んでいく感覚なのだろう。愛していると思っていた人に触れられて、何も感じないこと。彼の唇は毒の味がする。階下には彼女からのメッセージが届いている携帯が置かれているというのに、彼は私を愛していると言う。彼の子供が他の女の中で育っているというのに。株式公開の後に私を捨てる計画を立てているというのに。
真はすぐに眠りに落ちた。穏やかで、安らかな寝息。
どうしてそんなによく眠れるの? どうして私の顔を見て嘘をついて、それで平気で眠れるの?
私は天井を見つめたまま横たわっている。
時計は午前二時四十七分を指していた。身動きもせず、眠ることもできない。
携帯が光る。彼が回している腕の下から、そっと体を滑り出させる。彼は身動き一つしない。
『藤原から君の決断について聞いた。アマゾンのプロジェクトが来月から始まる。席は一つ空けてある。いつでも準備はできている。J』
私の中で何かが解けた。痛みではない。安堵だ。
返信する。
『ありがとう。必ず行きます』
真を見る。彼は安らかに眠っていて、片腕はまだ私がいた場所を探すように伸ばされている。
クローゼットへ向かう。彼が買ったドレスの後ろの奥に、小さな金庫がある。私の金庫。彼が暗証番号を知らない、唯一のもの。
中には、パスポート。出生証明書。青嶺大学の卒業証書。母の真珠のネックレス。独身時代からの株券。現金五百万円。彼に話したことのない、緊急用の資金。
小さな革のバッグを取り出し、荷物を詰め始める。
パスポート。書類。祖母の指輪。真と出会う前の写真。
ナイトスタンドから、鳥居がくれた封筒を取る。すべての証拠。真と詩乃の写真。銀行の記録。病院での録音データ。
それをバッグに加え、ジッパーを閉める。
バッグを金庫に戻す。ドレスの後ろ。見えない場所へ。
ベッドに戻る。真はまだ眠っている。安らかな顔。ほとんど無垢にさえ見える。
あと三日で、あなたは一人でベッドで目を覚ますことになる。空っぽのクローゼット。空っぽの人生。
そして私は、自由になっている。
