第3話
「字も読めないの? そこにちゃんと書いてあるじゃない」
私は声を上げて問い返した。
彼と結婚してからの三年、夫婦の営みはおろか、同じベッドで眠った回数すら片手で数えられるほどだ。
だからこそ、離婚協議書にわざとその一文を書き加えたのだ。
普段は私に無関心なくせに、いざ離婚となった途端、たった一つの理由で和也が取り乱すなんて、本当に滑稽だ。
受話器の向こうから、歯を食いしばるような音が聞こえる。彼は極限まで怒りを堪えて口を開いたようだった。
「お前……よくも言ってくれたな」
その声を聞いて、私はふっと笑いを漏らし、さらに彼を煽り立てる。
「事実を書いただけよ。藤原さん、もし本当にダメなら、早めにお医者さんに診てもらったほうがいいんじゃない? なんなら私が何人か紹介してあげようか?」
言い終わるや否や、和也の怒声が弾けた。
「何をふざけたことを言ってる! 俺の凄さを知らないだけだろ!」
私はわざと語尾を伸ばし、からかうように返した。
「どの方面の凄さのこと? そっちの話なら、私、本当に知らないわね」
「お前、一体何を拗ねてるんだ? 俺が寧々の卒業式に行ったからか? そんな些細なことで、ここまで騒ぐことないだろ」
こんな状況になってもなお、和也は私が離婚を切り出したのをただの癇癪だと思っている。
私の誕生日を忘れたことすら、彼にとってはほんの些細な出来事にすぎないのだ。
「あなたとの退屈な三年間にもううんざりしたの。だから離婚する。何か問題でも?」
私の声から一切の温度が消える。
「それに、男としての基本性能すら怪しい人に未練なんて欠片もないわ。離婚協議書にサインしたら、さっさと手続きを済ませましょう。ちゃんとできる人を探す邪魔をしないでちょうだい」
和也がそこを気にすればするほど、私はわざとその急所を突いた。
彼が取り乱す声を聞きながら、私の胸の奥はこれ以上ないほど晴れやかだった。
結婚してからの数年間、私はあらゆることを我慢し続け、いつの間にか自分自身すら見失っていた。
いざ彼から離れようと決心して初めて気づいた。彼なんて、所詮その程度の男なのだと。
私が愛というフィルターをかけていなければ、ただの最低な男にすぎない。
電話の向こうで和也がまだ何か喚いていたが、もう耳を貸す気にもなれなかった。
「離婚の件以外で電話はしてこないで。暇があるなら、藤原さんも病院へ行ったほうがいいわよ。やっぱり体が資本なんだから」
言い放った瞬間、胸につかえていた重い塊がすっと消え去るのを感じた。
私は和也の反応を待たず、そのまま一方的に通話を切った。
無理やり手に入れたこの結婚は、とうの昔に終わらせるべきだったのだ。
今一番重要なのは、モード・アトリエのデザイン案件を勝ち取ること。
デザインの世界から長く離れすぎた私が、再び表舞台に立つためには、誰もが納得するだけの実績が必要不可欠だ。
そしてこのプロジェクトこそが、私のキャリアを再始動させるための足がかりとなる。
私は再びプロジェクトの資料に没頭し、手元の情報を基に大まかなデザインの方向性を固めていった。
具体的なステップや詳細な詰めは、モード・アトリエに正式に入社してから進めればいい。
資料を片付けると、私は大きく息を吐き出し、そのままベッドに倒れ込んで眠りについた。
翌日。
再び目を覚ましたのは、けたたましく鳴り響く着信音のせいだった。
水原梨乃(みずはら りの)からの電話だ。
梨乃は幼い頃からの幼馴染で、私にとって唯一の親友である。
私が口を開くより早く、受話器から梨乃の興奮した声が飛び込んできた。
「葵! お母さんから聞いたよ、やっと離婚する気になったんだって?」
私の母と梨乃の母親は親友同士なので、彼女の耳に入るのが早いのも不思議ではない。
突然の大声に鼓膜が刺激され、私は反射的にスマホを耳から少し離し、できるだけ頭をはっきりさせて答えた。
「梨乃、話せば長くなるの。あとで会って話そう」
そう言うと、梨乃は二つ返事で了承した。
私たちは、よく行くショッピングモールで待ち合わせることにした。
顔を合わせるなり、梨乃は私の腕を掴んで問い詰めてきた。
「なんで急に離婚なんて? あんなに止めたのに全然聞く耳持たないで、いつもあの男の言い訳ばっかりしてたのに」
そう言う梨乃の目は、まるで救いようのない馬鹿を見るような目をしていた。
今思えば、和也のために必死に取り繕っていた過去の自分が、笑えるほど愚かに思える。
私は首を振り、自嘲気味に口を開いた。
「本当は、彼が私を愛してないことなんて、とっくに気づくべきだったのよ。私の誕生日はきれいに忘れてたくせに、寧々の卒業日は完璧に覚えてたんだから」
それを聞いた梨乃は私以上に激昂し、義憤に駆られたようにまくし立てた。
「和也って“恩知らず界”のトップじゃん! あんたの助けがなきゃ、今のあいつなんて何者でもないくせに! 結婚してるのに養妹とベタベタ絡むとかありえない。離婚! 絶対そんなクズ男とは離婚しな!」
梨乃は怒りのあまり声を抑えきれず、周囲の目など全く気にする様子もなかった。
あまりの剣幕に、私は慌てて彼女をたしなめる。
「ちょっと、外なんだから。声大きいって」
注意されても梨乃の顔にはまだ不満が残っていたが、すぐに何かを思い出したように再び口を開いた。
「で、離婚の財産分与はどうなってるの? まさか一銭ももらわずに出てきたなんて言わないよね」
梨乃の視線を真っ直ぐ向けられ、私は言葉に詰まった。
私のその表情を見て、梨乃はすぐに全てを察し、呆れ果てたように頭を抱えた。
「馬鹿なの!? 和也が今の和也でいられるの、あんたの功績大でしょ。もらえるお金はきっちりもらって、使い倒しなよ! じゃないと、外の女に全部回るんだから」
「……」
「前にあいつから渡されてたお金は? 確か副カード持ってたよね」
梨乃はさらに追及してくる。
「ここにあるわ」
私はバッグからカードを取り出し、気前よく宣言した。
「今日は全部、私のおごりよ」
和也の事業が軌道に乗ってからは、金銭面で私に不自由させることはなかった。
毎月決まった額のお小遣いとは別に、限度額のない副カードまで渡されていた。
ただ、当時の私は自分自身もお金に困っていなかったため、彼のカードを使ったことは一度もなかったのだ。
でも今は違う。すっかり吹っ切れた。
これらはすべて婚姻中の共有財産であり、私にはそれを使う正当な権利がある。
両手にこれ以上持ちきれなくなるまで買い物を楽しみ、私たちはようやく名残惜しそうに帰路についた。
家に帰ってソファに倒れ込むなり、梨乃は私の背後でこそこそと誰かに電話をかけていた。
私は深く考えず、そのままソファにもたれてぼんやりとくつろいでいた。
三十分後、家のインターホンが鳴った。
不思議に思いながらドアを開けると、目の前にずらりと並んだ黒スーツのイケメンたちに、私は思わず固まってしまった。
すると、梨乃がニヤニヤと悪戯っぽい笑みを浮かべながら近づいてきた。
「葵、これ私からのサプライズ。ほら、たまには思いっきりリラックスしな」
そう言うなり、私の承諾も待たずに、彼女は彼らを強引に部屋の中へと引き入れた。
四、五人のイケメンホストたちが私をぐるりと取り囲み、手際よく連携してマッサージを始める。
正直に言って、梨乃が呼んだこの男たちはかなりの極上だった。広い肩幅に引き締まった腰、どいつもこいつも見事なスタイルをしている。
彼らの甘い言葉の波状攻撃に、私はあっさりと白旗を上げてしまった。
気づけば、あっという間に何度かカードを切っていた。
だが、そのとき私は気づいていなかった。さっき使ったのが、和也の副カードだったことに。
ドアを激しく叩きつける音と、怒気を孕んだ和也の声が響き渡るまでは。
「葵、開けろ」
ドアを開けると、眉間に深い皺を刻んだ和也が立っていた。
彼は私の背後へ視線を滑らせ、部屋の中にいる数人のホストの姿を認めた瞬間、顔色をさらに険しくした。
「どういうつもりだ? 俺のカードで男遊びか?」
