第8話
和也の顔色が変わるのを見て、胸の奥がすっとした。
彼のその苦虫を噛み潰したような顔を見るのが、たまらなく好きだ。
特に、すべてを掌握していると自惚れていたのに、思い切り鼻っ柱を折られたときの顔といったら。
「これ、寧々がお前に送ったのか? だが……」
「もういいわ。あなたと寧々の間に何があったかなんて、興味ないから」
和也が言い訳を続ける隙を与えず、ぴしゃりと遮った。
私が立ち去ろうとするのを察し、彼は行く手を遮るように立ち塞がった。
「寧々はまだ子どもなんだ。あの写真は誤解で、あいつとは何もない」
その言葉を聞いても、私の心は微塵も揺れなかった。
たとえ写真が偽物だったとしても、二人が何もしていない証明にはならない。
こんな無意味な弁明を聞かされるなど、時間の無駄でしかない。
私は冷笑を浮かべて言い放った。
「こんな夜更けに純情ぶるのはやめて。どうせ離婚するんだから、これ以上私を不快にさせないで」
言い捨てるなり、引き留めようとする彼を無視して横を通り抜けた。
バーでの一件は、ただの些細なハプニングにすぎない。
あの日以来、和也の姿を見ることはなかった。連絡先を削除してからは、完全に音信不通となった。
モード・アトリエに入社し、引き継ぐべき業務が山のようにある。
ずっと放置していたユリの仕事用アカウントも再び稼働させた。
ログインした途端、スマホの画面に大量のメッセージ通知がポップアップする。
そんな中、仕事用アカウントに一件のフレンド申請が届いた。
見覚えのあるアイコンに、思わず眉をひそめる。
和也がどこから私の仕事用アカウントを探し出したのかは分からない。
申請メッセージの欄に書かれた仕事の要件を一瞥し、私は考えるまでもなく拒否ボタンを押した。
たとえ彼がユリの正体を知らないのだとしても、これ以上関わりを持つ気は一切ない。
業務連絡の処理を終え、アカウントからログアウトした。
だが予想外なことに、退勤して家に着くと、門の前に招かれざる客がいた。
またしても、和也だ。
完全に無視を決め込み、彼を避けて敷地に入ろうとする。
しかし私に気づくや否や、彼はまっすぐこちらへ歩み寄ってきた。
「お前、モード・アトリエに入ったのか? あそこは寧々が入りたがっていた会社だと知ってるだろう」
和也の声は冷え切り、その眼差しには氷のような怒りが宿っていた。
まるで罪人を問い詰めるようなその態度に、私は呆れ果てた。
「寧々が入りたがっていることと、私に何の関係があるの? 私が入社を邪魔したとでも? それとも、彼女の仕事を奪ったとでも言うわけ?」
考えるまでもない。どうせまた寧々があることないこと吹き込んだのだろう。
でなければ、和也がわざわざこんなことのために足を運ぶはずがない。
「葵、自分の実力を証明したい気持ちは分かる。だが、モード・アトリエはお前のような人間が入るべき場所じゃない。恥をかく前に、自分から辞職して体面を保て」
まただ。いつもの見慣れた態度。
和也の目には、どう比べても私が寧々に劣っているようにしか映らないらしい。
彼と過ごした長年の間、こんなことは数え切れないほどあった。
だから今、同じような言葉を投げつけられても、私の心はただ麻痺しているだけだった。
「嫌だと言ったら? あなたもよく分かっているはずよ。私にはモード・アトリエの人事を左右するほどの権力なんてない。寧々が入りたいなら、自分の実力で入ればいいじゃない」
私は顔を上げ、彼の視線を真っ向から受け止めて堂々と言い放った。
モード・アトリエが私に仕事を与えたのではない。私がモード・アトリエを選んだのだ。
たった二、三の言葉で、私が手にしたものを手放すと思っているなら、とんだお笑い種だ。
私が頑として譲らないのを見て、和也も次第に苛立ちを募らせ、眉間に深い皺を刻んだ。
「身の程を知れ」
「私、すごく意地っ張りなの。藤原さんも、私なんかに時間を無駄にしないほうがいいわよ。私の目から見れば、寧々の能力なんて、あなたのある部分と大差ないし」
わざと彼を煽るように言い、意味ありげに彼の下半身へ視線を落とす。
そして、さも呆れたように小さく首を振ってみせた。
案の定、私の一連の態度に、和也の顔色はこれ以上ないほど険悪になった。
「自分が何を言っているか、分かっているのか?」
私はどこ吹く風で返す。
「もちろん分かってるわ。もう一度言うけど、あなたたち兄妹の顔なんて二度と見たくないの」
言い終えるなり、彼の肩にわざとぶつかるようにして門を通り抜け、そのまま扉をピシャリと閉めた。
その夜、会社のグループチャットに「コネ入社の新人が来るらしい」という噂が流れた。
そのメッセージを見たときは、深く考えもしなかった。
だが、翌日になって悟ることになる。
見慣れたマイバッハが、モード・アトリエの前に滑り込んできたのだ。
車から降りてきた二人を見た瞬間、すべてを理解した。
昨夜チャットで噂されていたコネ入社とは、寧々のことだったのだ。
仕事においては決して情を挟まないはずの和也が、まさか寧々のためにコネを使うとは思いもしなかった。
二人が現れるなり、会社の女性社員たちの間でざわめきが起こる。
私はモード・アトリエのエントランスに立ち、二人の姿を静かに見つめていた。
遠く離れていても、寧々の顔に浮かぶ得意げな表情ははっきりと見て取れた。
和也がわざわざ降車して寧々のためにドアを開ける。その一連の動作はあまりにも自然で、これまで何度も繰り返されてきた光景なのだろう。
寧々は周囲の視線など気にも留めず、堂々と車から降り立ち、甘ったるい声を出した。
「お兄ちゃん、行ってくるね。夜は一緒にご飯食べようね」
「ああ。仕事が終わったら連絡しろ、迎えに来る」
二人のやり取りに呆れ果て、無意識のうちに毒づいていた。
「……気持ち悪い」
その呟きは、ちょうど通りかかった同僚の耳に入ってしまったらしい。
同僚は私の視線の先を追い、羨ましそうに声を上げた。
「あの子が新しく入ったインターンよ。隣にいるのは彼氏なんだって。うちの新規プロジェクトのスポンサーらしくて、わざわざ追加出資して彼女をねじ込んだらしいわ。私にもあんな彼氏がいればなぁ」
私は冷ややかに尋ねた。
「あの男のこと、知ってるの?」
私の態度に、同僚は不思議そうに首を横に振る。
「ううん、知らないわ。あなた、彼の知り合い?」
私はふっと笑い、皮肉たっぷりに答えた。
「まあ、知り合いね。もうすぐ離婚する、私の夫だから」
その言葉に、同僚は目を丸くして、信じられないというように聞き返した。
「冗談でしょ? あれがあなたの旦那さん? じゃあ、なんで彼は……」
動揺する同僚の肩を軽く叩き、わざとおどけてみせる。
「信じちゃった? ただの冗談よ」
同僚はほっと胸を撫で下ろした。
「もう、びっくりさせないでよ。そんな冗談、よく言えるわね」
私は微笑んだまま、少し離れた場所にいる二人を見つめ、それ以上は何も言わなかった。
寧々と和也の親しげな振る舞いは、誰の目から見ても誤解を招くものだ。
モード・アトリエの社員の多くも、二人を恋人同士だと完全に思い込んでいる。
そんな周囲の憶測をよそに、和也の視線がふと私を捉えた。
視線が交差した瞬間、私はさっと目を逸らし、彼にこれ以上の関心をくれてやることはなかった。
私の姿を見たからだろうか、和也は寧々との関係を直接否定しようともしなかった。
「お兄ちゃん、また夜ね。迎えに来てくれるの、待ってるから」
彼の沈黙を肯定と受け取ったのか、寧々の態度はさらに神気立ったものになっていた。
