第9話
和也に別れを告げると、寧々は足早にモード・アトリエのビルへと入っていった。
前を歩く私の姿を認めるや否や、彼女はそのまま後を追ってきた。
私の前に来ると、寧々はあのぶりっ子な態度をすっかり引っ込めた。
「見たでしょ。私が欲しいものは、お兄ちゃんがどんな手を使ってでも手に入れてくれるの」
その口調はひどく得意げで、明らかに私を見下して見せびらかしている。
私は彼女の胸元にあるネームプレートを一瞥し、皮肉たっぷりに言い放った。
「彼に用意できるのも、せいぜい見習いデザイナーの肩書きくらいね。しっかり働きなさい、もしかしたら正社員になれるかもしれないし」
寧々の顔色が一瞬で曇ったが、それでも強がって言い返す。
「見習いだからって何よ。私、絶対に自分の実力で正社員になってみせるから」
始業時間も迫っていたし、これ以上彼女に時間を無駄にしたくなかったので、適当に話を合わせた。
「あなたの実力、楽しみにしてるわ。頑張って」
そう言い残し、私はさっさとその場を離れた。
自分のデスクに着いて間もなく、入社手続きを終えた寧々が案内されてきた。
プロジェクトチームのチーフであるユミが声を上げる。
「葵、新人の寧々さんだけど、あなたの班に配属することになったから。指導をお願いね」
ユミの言葉に、私はようやく顔を上げて返事をした。
「分かりました」
寧々と同じ班になるのは気が進まなかったが、会社が決めたことなら文句は言えない。
人事の担当者がオフィスを出ていくと、寧々は進んで私たちに向かって挨拶をした。
「先輩の皆様、初めまして。寧々と申します。ここでたくさんのことを学ばせていただきたいと思っています。よろしくお願いします」
認めざるを得ないが、表面を取り繕うことに関して彼女は本当に抜かりがない。
一通りの挨拶を終えた後、私はさっそく寧々に仕事を割り振った。
「今日は初日だから、まずはチーム内の各種データの照合をお願い。この部分を担当してちょうだい」
チーム全体が新プロジェクトのデザイン画に追われている中、入社したばかりの寧々を考慮して、あえて重要な業務は任せなかったのだ。
寧々は二つ返事で引き受け、指示通りにデータの照合を進め始めた。
こんな何の難しさもない単純作業なら、まさか問題など起きないだろうと思っていた。
だが、寧々はまたしても私の認識を覆してくれた。
昼休み。
目を閉じて少し仮眠を取ろうとした矢先、オフィスに突然悲鳴が響き渡った。
「どうしよう!」
寧々の声だ。
その声に、その場にいた全員の視線が一斉に集まる。
見れば、彼女は今にも泣き出しそうな顔で口を開いた。
「うっかり、書類をダメにしちゃって……」
そう言う彼女は、後ろめたさからか私と目を合わせようとしない。
その言葉に私はハッとし、慌てて立ち上がって彼女のデスクへ状況を確認しに行った。
束になったファイルの上がびしょ濡れになっていた。水か何かは分からないが、書類の文字はすっかり滲んで読めなくなっている。
私は眉をひそめた。
寧々に渡したのは原本だ。しかも、私の手書きの原稿まで含まれている。
短時間でデータを完全に復元することなど不可能だ。
書類が使い物にならなくなったということは、これまでプロジェクトで進めてきたシミュレーションを全部白紙に戻さなければならないことを意味する。
「こんな簡単なこともまともにできないの?」
私は怒りを抑えきれず、直接問い詰めた。
叱られた寧々は途端に被害者ぶった顔になり、口を尖らせる。
「わざとじゃないのに……」
「こんな基礎的なことすらできないようじゃ、無事に試用期間を乗り切れるとは思えないわね」
私は容赦なく言い放ち、きっぱりと否定した。
寧々は悔しそうな顔をしたが、私の言葉に反論することはできなかった。
その様子を見て、これ以上彼女に構って時間を無駄にする気も失せた。
私は濡れて滲んだ書類を開き、どうにか修復できないかと手を尽くす。
しかし無残にも、水濡れはすでに書類全体にまで染み込んでいた。
こうなっては仕方がない。チーム全員で寧々の尻拭いをすることになった。
だが、全員が把握しているデータをかき集めて繋ぎ合わせても、完全なデータには到底及ばない。
チーム全員で午後いっぱい奔走したにもかかわらず解決の糸口が見えない状況に、私も次第に苛立ちを募らせていった。
寧々がここまで使えないと分かっていれば、最初から仕事を任せるべきではなかった。
「これ、まだどうにかなる方法ってあるんですか?」
責任を問われるのを恐れたのか、寧々が自ら取り繕うように口を開いた。
それを聞き、ユミがパソコンから顔を上げて重々しい口調で答える。
「私たちのデータ元はユリさんが提供してくれたものなの。この事態を収拾するには、ユリさんに直接動いてもらうしかない。それ以外に解決策はないわ」
ユミの言葉に寧々の顔色はみるみる青ざめたが、それでも探るように尋ねた。
「ユミさん、そのユリさんって、三年前に引退したあのユリさんのことですか?」
ユミは頷いて肯定し、さらに言葉を続ける。
「ええ。しかもユリさんは、モード・アトリエが長年オファーし続けて、最近ようやくプロジェクトへの参加を承諾してくれたデザイナーなの。ただ、ご本人は極めて控えめな方で、一度も表舞台に姿を見せていないのよ」
私は傍らで黙って聞いていた。
それは私が晴美に特別に要求したことだ。モード・アトリエのチーフデザイナーとしてプロジェクトに参加する条件として、私の正体を外部に伏せてもらったのだ。
だから、チームのメンバーは私の本当の身分を知らない。
知っているのは数名の部長クラスだけだ。
それを聞いた寧々の顔はさらに引きつり、すぐさまスマホを取り出して電話をかけた。
電話が繋がるや否や、寧々は泣きつくように声を上げる。
「お兄ちゃん、ちょっとトラブルになっちゃって……」
寧々は周囲の目を気にする素振りすらない。
その聞き慣れた呼び方で、彼女が和也に助けを求めていることはすぐに分かった。
続いて、寧々は事の顛末を和也に説明し始めた。
スピーカーにはしていなかったので和也の声は聞こえなかったが、寧々の表情を見る限り、和也が尻拭いを引き受けたのだろう。
電話を切ったときには、寧々の機嫌はすっかり直っていた。
和也の助け舟を得て、寧々の態度は再びふんぞり返ったものになり、わざと私の前に歩み寄って口を開いた。
「私がどんなに大きなミスをしても、結局お兄ちゃんが全部カバーしてくれるみたい」
彼女はわざと、私たち二人にしか聞こえない声量で囁いた。
「あなたって、本当にいつまで経っても子供ね」
私は手元のデザイン画を片付けながら顔を上げ、彼女と視線を合わせて冷ややかに言い放つ。
そう言い残し、私は席を立った。
モード・アトリエのビルを出た直後、仕事用のアカウントにメッセージが届いた。
『ユリ、今夜少し会う時間ある?』
送り主は、同門の先輩である西園寺蓮(さいえんじ れん)だった。
随分とご無沙汰していたこともあり、私は二つ返事で了承した。
すぐに彼から待ち合わせ場所の住所が送られてくる。
会社からそう遠くない場所だったので、私はそのまま向かうことにした。
だが思いがけないことに、レストランに足を踏み入れた途端、正面からある人物と鉢合わせた。
「俺をストーカーでもしてるのか?」
不満を滲ませた和也の声が響く。
「どうせ離婚したくないんだろうが、お前のやり方は相変わらず下劣だな」
目の前の男を見て、私は眉をひそめて言い返した。
「自意識過剰じゃない? あなたにストーカーする価値なんてどこにあるのよ。それに、離婚協議書にはもうサインしたわ。今、離婚を渋ってるのはそっちでしょ。離婚したくないなら、さっさと土下座して縋りついたらどう?」
ちょうどその時、遠くから蓮が歩み寄ってきて、私を見るなり興奮気味に声を上げた。
「ユリ!」
「ユリ?」
和也が私を見る目には、信じられないといった色が浮かんでいる。
彼は無意識に蓮の方へ視線をやり、再び私を値踏みするように見つめ直した。呼ばれたのが本当に私なのか、判断しきれないといった様子で。
