第2章
「準備はよろしいですか、コンスタンチン夫人」
医師は手術台の傍らに立ち、その横では看護師が器具の準備をしている。金属同士がぶつかり合うカチャカチャという音が、やけに鼓膜を刺した。
ひんやりとした手術台に横たわる私は、静かに頷いた。
昨夜は一睡もせずに考え抜いた——この子は、堕ろさなければならない。ニコライのもとを去るためにはお金と安全な場所が必要で、私のものではないこの子は最大の足枷になる。この子がお腹にいる限り、コンスタンチン家は永遠に私を逃がしてはくれない。
それなのに、私の手は無意識のうちにお腹へと伸びていた。
お腹の赤ちゃんが激しく動いている。まるで危険を察知して、必死に抵抗しているかのように。「見捨てないで」と、私に懇願しているのだろうか。
私はギュッと唇を噛み締めた。考えるのはやめよう。この子はニコライとスカーレットの子供だ。産んだところで、すぐに奪い取られ、スカーレットのことを「ママ」と呼ぶのをただ黙って見ていることしかできないのだから。
「深呼吸して、リラックスしてください」医師が近づいてくる。「すぐに終わりますから」
麻酔科医が注射器を手に取り、その針先がじりじりと私の腕に迫る。
その時、赤ちゃんがまたお腹を蹴った。とても弱い、おずおずとした、控えめな胎動。
不意に、涙が止めどなく溢れ出した。
「待って!」私は勢いよく身を起こした。
医師が呆気にとられる。「どうされました?」
「ごめんなさい……」私はお腹を庇うように両手で覆い、涙顔で首を振った。「私には、できません」
すでに六人の命を失っている。七人目まで失うわけにはいかない。たとえ私の子じゃなくても、たとえ一人で育て上げることになろうとも——この子は、私が守る。
服をひっ掴むと、私は逃げるようにしてクリニックを飛び出した。
実家へと車を走らせる道中、私の震えはいつまでも止まらなかった。
今はまだ、ニコライの顔を見たくない。
どこかへ身を隠したかった。これからどうすればいいのか、誰かに教えてほしかった。
玄関のドアを開けると、リビングから楽しげな笑い声が聞こえてきた。
母のリンダがソファに座り、トリュフパスタを一口ずつスカーレットに食べさせている。「さあ、もっと食べなさい。風邪が長引いて、すっかり痩せちゃったわね」
「お母さん、もう本当にお腹いっぱい」スカーレットは弱々しく微笑みながらも、素直に口を開けてパスタを呑み込んだ。
そこへ父のマーカスが温かいお茶を運んできて、慎重に彼女へ差し出す。「お医者様からも、しっかり休むようにと言われただろう。今夜はマンションに帰らず、このまま泊まっていきなさい。お父さんとお母さんで面倒を見るから」
ダイニングテーブルには、シーザーサラダやティラミスなど、スカーレットの好物ばかりが所狭しと並べられている。いくつか置かれたお洒落なテイクアウト用の箱も、彼女がお気に入りのイタリアンレストランで注文したものだ。
私は入り口に立ち尽くし、誰かが気づいてくれるのを待っていた。しかし、彼らの世界にはスカーレットしか存在しなかった。
「お姉ちゃん! 来てたんだ!」ようやく私を目に留めたスカーレットが、パッと瞳を輝かせる。
そこで初めて、両親がこちらを振り向いた。
「まあアリア、なんてひどい顔をしているの」母が眉をひそめ、私を値踏みするようにジロジロと見る。「あなたは今、一人の体じゃないのよ。そんなことで、ニコライに健康な跡取りを産んであげられるの」
「大丈夫?」でも、「疲れていない?」でもない。ただ、「子供に万が一のことがあっては困る」という言葉だけ。
「コンスタンチン家は、その子を待ち望んでいるんだからな」父も口を挟む。「医者は何と言っていた? 発育は順調なのか? くれぐれもヘマはしないように」
私は口を半開きにした。「助けて」「騙されていたの」「お願いだから私を救って」——そう叫びたかった。
しかし、喉元まで出かかった言葉は、スカーレットの無垢な瞳を見た途端、すべて胃の奥底へと呑み込まれてしまった。
「さあ、あなたも何か食べなさい」母が取って付けたように促し、食卓から大きなステーキを一切れ、皿に取り分けた。
焼き加減はレア。まだ赤い血がじわりと滲み出ている。
そのステーキをじっと見つめていると、胃が激しく波打った。
母は知っているはずだ。私が子供の頃から血の滴るような肉が食べられないことを。八歳の時、母が初めて焼いてくれたステーキを口にした私は、ひと口で吐き出してしまったのだから。
けれど、今の彼女は忘れている。他にもたくさんのことを忘れてしまったように。
私が十二歳の誕生日に欲しがったケーキを、「高すぎてうちでは買えないわ」と拒否したこと。そのくせ、二ヶ月後のスカーレットの誕生日には、三段重ねの豪奢なフォンダンケーキを用意したこと。
私が十五歳で四十一度の高熱を出した時、解熱剤だけを飲ませてスカーレットを遊園地へ連れて行き、私を二日間も一人きりで寝込ませたこと。
私が十八歳でアイビー・リーグに合格した時は「よかったわね」の一言で済ませたくせに、スカーレットがニューヨーク大学に合格した時は、家族総出でシャンパンを開けて盛大に祝ったこと。
幼い頃から、ずっとこの調子だ。
「お姉ちゃんの作ったロブスタービスク、飲みたいなあ」スカーレットがふいにこちらを見上げ、甘えるような笑みを浮かべた。「去年のクリスマスに作ってくれたやつ、今でも忘れられないの。お姉ちゃん、もう一回作ってくれない?」
「アリア、妹のために作ってあげなさい」母がすかさず同調する。「この子は体が弱いんだから、栄養をつけさせないと。あなたも妊娠中とはいえ、しっかり動いた方が安産に繋がるわよ」
断りたかった。妊娠五ヶ月を迎え、つわりもまだ完全には治まっていない。
それでも、不機嫌そうに眉を寄せる両親の顔を見て、私は重い腰を上げた。
キッチンに立つと、ロブスターの生臭さが鼻をついた。
私はシンクの縁に突っ伏してえずいた。何も吐き出せないのに、胃だけが激しく痙攣する。どうにか落ち着きを取り戻し、吐き気をこらえながら食材の下ごしらえを続けた。
コンロの上で、スープがグツグツと煮立っている。
スープボウルを両手に持ち、ダイニングへ向かう。扉に近づいた時、リビングから声を潜めた会話が漏れ聞こえてきた。
「本当に、スカーレットは妊娠できないのか?」父の声だった。
私の足が、ピタリと止まる。
「お医者様がはっきりとおっしゃったわ。妊娠は心臓への負担を増大させるから、リスクが高すぎるって」母が大きなため息をつく。「アリアがいてくれてよかったわ……あの子は体が丈夫だから、何人産ませても平気よ」
ボウルを握る私の手が、小刻みに震え始めた。
「お姉ちゃんに申し訳ないよ」スカーレットが泣き声で言う。「こんな風に、お姉ちゃんを利用するなんて……」
「馬鹿なことを言うんじゃない。姉が妹を助けるのは当然のことだろう」父が宥めるように言う。「それに、アリアはお前のお姉ちゃんなんだ。お前の代わりに子供を産むのは、あの子の義務だよ。お前の心臓が悪いのに、命の危険を冒すのを黙って見過ごせるわけがないだろう?」
——知っていたのだ。彼らは最初から、すべて分かっていたのだ。
「アリア! スープはまだなの?」母が苛立たしげに声を張り上げる。「スカーレットがずっと待っているのよ!」
私は深く息を吸い込み、必死に涙をこらえて、スープを持ったままダイニングへと足を踏み入れた。
「ありがとう、お姉ちゃん!」スカーレットは感激した様子でボウルを受け取る。「お姉ちゃんは、いつだって私の一番の味方ね」
彼女がスープを飲もうと俯いた瞬間、首元のマフラーが滑り落ちた。
その白い首筋に、赤黒いキスマークがくっきりと浮かび上がっている——まだ生々しい、真新しい痕だった。
スカーレットは「慌てた」ようにマフラーを引き上げたが、その瞳の奥で一瞬だけ瞬いた優越感が、彼女の本性を雄弁に物語っていた。
昨夜、ニコライから漂ってきた香水の匂いが脳裏をよぎる——ジョーマローンのワイルドブルーベル。スカーレットが愛用している香りだ。
彼は昨夜、この子に会いに行っていたのだ。
急な目眩に襲われ、私はダイニングテーブルの縁を強く掴んだ。二人の間に何があったのか、それ以上考えるのを必死に押し留める。
スカーレットがボウルを両手で持ち、一口飲んだ。その途端——彼女の顔からサッと血の気が引き、胸を掻き毟るように押さえた。
「苦し……息、が……」
ボウルが彼女の手から滑り落ちる。
ガシャン——と、陶器が床に激突して甲高い音を立てた。
煮えたぎるロブスタービスクが床一面にぶちまけられ、熱い汁が私の腕やふくらはぎに飛び散った。皮膚が瞬く間に赤く腫れ上がり、焼け付くような激痛が走る。
しかし、私を見る者は誰もいなかった。
「スカーレット!」母が金切り声を上げて駆け寄る。「どうしたの!? あなた! 早く! 早く救急車を!」
「間に合わん!」父がスカーレットを抱き留める。彼女の体はすでにぐったりと脱力していた。「ここから病院まで二十分はかかる。心臓の発作だ、そんなに長くは保たない!」
その時、タイミング良く玄関のチャイムが鳴り響いた。
ドアを押し開けて入ってきたのはニコライだった。私を迎えに来たのだ。だが、リビングの惨状を見た瞬間、彼の顔色が一変する。
「一体何があった!?」彼は大股でこちらへ駆け寄る。
「ニコライ!」父が彼の腕にすがりつく。「スカーレットの心臓発作だ! 頼む、早くこの子を病院へ運んでくれ!」
ニコライは一切の躊躇なくスカーレットを抱きかかえ、そのまま外へと飛び出した。「俺の車が外にある、急ぐぞ!」
「私たちも行くわ!」両親も血相を変えてその後を追う。
「ニコライ——」私は彼を呼び止めようとしたが、声は喉の奥で掠れて出なかった。
私の横を通り過ぎる時、彼は一瞥すらよこさず、ただ一言だけを冷たく言い放った。「ここで待っていろ」
そして、バタン——と、無情にもドアが閉ざされた。
リビングには、私一人だけが取り残された。床にぶちまけられたスープからはまだ湯気が立ち上り、粉々になった陶器の破片が散乱している。ふと視線を落とすと、真っ赤に焼けただれた腕の火傷は、すでに水ぶくれになっていた。
痛い。ひどく痛む。
それでも、一番痛いのは——私の心だった。
私はゆっくりとその場にしゃがみ込み、この無惨な光景をただ見つめていた。
まるで、私の人生そのものだ——粉々に砕け散り、誰にも見向きもされない。
