第2章
もうこれ以上、面倒事に関わりたくなかった。
私は無言で踵を返し、スパの通用口へと足を向ける。一刻も早く、この忌々しい場所から立ち去りたかったのだ。
「待て」
雨音を切り裂くように、淳一のドスの利いた声が響く。
「どこへ行こうってんだ、あァ? テメェ」
私は振り返らなかった。
武司の過保護ぶりは、常軌を逸している。もし彼が、私が雨の中に立たされ、罵倒されていると知ったら——明日の朝には、この街区全体が犯罪現場と化しているだろう。
「千佳」
久美子が私の二の腕を掴んだ。
「このまま逃げられるとでも思ってるの?」
私は視線を落とし、袖に食い込む彼女の指先を見つめた。
「あなたたちと話すことなんて、何もないわ」
冷ややかに言い放つ。
「いいえ、たっぷりあるわよ。何しろ今夜は、このスパにとびきり重要なゲストがいらっしゃるんだから。本物のレディがね。私と淳一は、彼女を出迎えに来たのよ」
「あんたには、ここで指をくわえて見ていてほしいの。私たちがどうやって『本物の』上流階級と付き合うかをね。真の格差社会ってやつを、その目で拝ませてあげるわ」
彼女の勝ち誇った口調に、吐き気が込み上げてくる。
「今夜のお客様はね」久美子は勿体ぶって続けた。
「S市からお越しの浅野奥様。あの浅野ファミリーの一員よ」
彼女はうっとりとした、大げさな眼差しを淳一に向けた。
「ダーリン、浅野奥様の会員カード、よおく見ておいてね。なんでも武司さんが、直々にプラチナVIPカードを贈ったそうよ。それが何を意味するか分かるでしょ? 権力、血統、そして真の特権階級の証!」
再び私に向けられた視線は、氷のように冷たく、嘲りに満ちていた。
思わず失笑が漏れる——こいつらは、自分が誰に口を利いているのか分かっていない。
淳一が猫なで声を出した。
「心配すんなって、ハニー。先月、お前にもゴールド会員証を作ってやっただろ? プラチナじゃねえが、優先案内はできる」
「あなたは最高よ、ダーリン」
久美子はそう言うと、侮蔑の色を浮かべて私に向き直った。
「聞いた、千佳? これが男の甲斐性ってものよ。自分の女を世話し、ふさわしい世界へ導くの」
「……どこかの誰かとは大違いね」
彼女は声を潜めて、けれど棘を含ませて続ける。
「一生貧乏で、高級スパなんて夢のまた夢。雨の中で濡れ鼠みたいに突っ立ってるのがお似合いよ」
淳一は腕を組み、まるでサーカスの見世物でも見るような目で私を見下ろした。
「で、テメェは一体何しに来たんだ?」
久美子が目を細める。
「まさか、本当に予約があるなんて言わないわよね。ここの利用料、あんたの月収より高いかもしれないのに」
私はコートのポケットに手を伸ばし、そのカードを取り出した。
ミッドナイトブラック。ブランドロゴは一切ない。ただ隅に、特定の光の角度でしか浮かび上がらない小さな『V』のエンボス加工があるだけ。
プラチナVIP。終身会員権。世界にたった五枚しか存在しない代物だ。
久美子の視線がカードに釘付けになる。
「何よそれ?」
彼女は猛然と飛びかかり、私が反応する前に手からひったくった。
光にかざし、目を細めてしげしげと眺める。
そして、甲高い笑い声を上げた。
「嘘でしょ、信じられない!」彼女は体をくの字に曲げ、膝を叩いて爆笑した。
「千佳、あんた偽造のVIPカードなんて持ち歩いてんの?」
淳一も覗き込み、つられて嘲笑を浮かべる。
彼はカードをむしり取り、裏返した。
瞬間、淳一の顔から血の気が引いた。
裏面には、こう刻まれていたのだ。
——浅野。
「盗みやがったな」淳一が呻く。
「テメェ、一体どこから——」
「何も盗んでなどいないわ」
「デタラメを抜かすな!」
彼は証拠品のようにカードを掲げた。
「あの浅野武司が——S市を牛耳る男が、こんなものをテメェに渡すとでも? お前みたいなド底辺の無名な女に——」
「ちょっと、マジなの?」
私が口を挟む間もなく、久美子がスマホを取り出し、パシャリと証拠写真を撮る。
「哀れなもんだぜ」淳一は荒い息を吐いた。
「偽物のカードを持てば、自分も偉くなった気になれるってか?」
「そのカードは」
私は静かに告げた。
「私の夫からの贈り物よ」
ピタリ、と笑い声が止んだ。
「夫、ですって?」久美子の笑顔が凍りつく。
「私の夫よ。武司は」
淳一の表情が険しくなる。
「武司……だと? まさか、テメェ——」
「浅野武司のこと?」久美子の声が1オクターブ跳ね上がった。「ボスの? あの恐ろしい——」
「千佳」
淳一が遮った。その声にはどす黒い悪意が滲んでいる。
「この大嘘憑きのクズ野郎がッ——」
彼は私の顎を乱暴に掴み、無理やり顔を上げさせた。
指が食い込み、顎が軋んで痛む。
「いいか、千佳」彼は噛み含めるように、低い声で脅した。
「テメェは今、越えちゃならねえラインを越えたんだよ」
顔を近づけてくる。熱い吐息が肌にかかる。
「テメェごときが、あの方の名を語っていいはずがねえんだ」
