第3章
「前の偽物の浅野奥様がどうなったか、知っているか?」
淳一が一歩、踏み込んでくる。
「首を刎ねられ、七日七晩、屋敷の正門に晒されたんだ。三日目には、カラスに両の目を啄まれていたよ」
「千佳。浅野家はお前が気安く触れていいような、そんな安っぽい場所じゃない」
淳一は冷笑を浮かべた。
「警告だ。俺を巻き込むな。これ以上その茶番を続けるなら、真っ先にお前を魚の餌にしてやる」
この男は、本物の浅野奥様に向かって、お前は偽物だと説教しているのだ。
「分かったか?」淳一は顎をしゃくる。
「俺はお前を救ってやってるんだぞ」
不意に何かを思い出したのか、淳一の声色が急に〝優しく〟なった。
「ああ、そうだ。来週、ビジネスサミットがある。浅野家も出席する予定だ。俺は共同出資者として参加する」
すかさず久美子が口を挟む。
「まさか、この人を連れて行くつもりじゃないでしょうね?」
淳一は答える。
「もちろんだ。だが——」
「給仕係として連れて行ってやるさ。俺にお茶でも注がせてやる」
久美子が心配そうに装う。
「千佳さん、ちゃんとした給仕係の格好をしてきてね」
給仕係?
私はそのサミットのVIPなのだが。
淳一はさらに墓穴を掘り進める。
「俺がいかにして本物の浅野家と交渉するか、その目でじっくり見学させてやろう」
私の心は凪いでいた。むしろ、一つの確信が深まっていく。
この男には、自分の世界が崩れ去る様を、特等席で見せてやらなければならない。
私が無言で見つめ返すと、淳一は急に口調を変えた。
「そんな、まるで俺がお前を粗末に扱ったかのような目で見るな。あの時は、ああするしかなかったんだ」
「お前は子供が産めない体だった。俺は家のことを考えなきゃならなかったんだ」
五年前、淳一は母親の手術に三十万が必要だと言った。私は彼を信じた。
必死に働いて金を貯めたが、それでも足りなかった。
挙式の1時間前、彼から一通のメッセージが届いた。『行かない』。理由は書かれていなかった。
後になって知ったことだが、いわゆる『医療費』は時間稼ぎのための嘘だった。
その時すでに、久美子は妊娠五ヶ月だったのだ。
真実は残酷だ——私はただのキープだった。彼はただ、男児を産んでくれる女を待っていたに過ぎない。
ふと、過去の自分が、淳一を信じていたあの頃の私が、あまりにも滑稽に思えてきた。
私が笑みを漏らしたことに驚いたのか、淳一がたじろぐ。
「千佳、俺を恨むのは筋違いだぞ」
五年前、私の家族は縁談を用意していた。相手は浅野武司。
私はそれを拒絶した。自分の人生は自分で選びたいと言って。
父は厳しく警告した。『お前は過ちを犯している』と。
私は聞く耳を持たなかった。淳一と出会い、彼こそが正解だと思い込んでいた。
その結果がこれだ。裏切り、放棄、屈辱。私の世界は空っぽになった。
その時ようやく、私は自分の選択の代償を理解し——そして同意した。武司に嫁ぐことを。
まさか、その決断が本当に私の運命を変えることになるとは思ってもみなかった。
私はS市で最も危険な男に嫁いだのだ。
それなのに淳一は、今なお私が自分に釣り合わない女だと思っている。
皮肉すぎて笑えてくる。
言い返す気にもなれず、私は彼らに最低限の表情すら向けなかった。
その沈黙が淳一を苛立たせたようだ。彼は「行くぞ」と吐き捨て、久美子を連れて立ち去った。
サミット当日。私は予定通り、主賓席に座っていた。
そこへ、淳一と久美子が現れた。
久美子が目を丸くする。
「本当に来たの? こっそり忍び込んだわけ? それとも誰かのIDでも盗んだの?」
私は答えない。
その必要はないからだ。
黙り込む私を見て、久美子はテーブルから赤ワインのグラスを手に取り、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「役になりきってるみたいだけど、もっとリアルな演出を手伝ってあげるわ」
彼女が手を振り上げる。
ワインが降り注いだ。
頭から、顔へ、ドレスへと、赤黒い液体が滴り落ちる。
会場から悲鳴が上がったが、誰も彼女を止めようとはしなかった。
所詮、彼らの目には——私が飼い主のいない野良犬にしか映っていないのだ。
淳一は傍らでグラスを握りしめたまま、まるでショーでも鑑賞するかのように突っ立っている。
興奮した久美子が、私を蹴りつけた。
私を吹き飛ばすには十分な威力だった。
椅子ごと床に倒れ込み、派手な音が響き渡る。
彼女は私の髪を掴み、頭を床へと押し付けた。
罵声を浴びせながら、彼女は叫ぶ。
「あんたみたいな人間が、どの面下げてこんな場所に来たのよ?!」
淳一が心配するふりをする。
「落ち着け、久美子。少しやりすぎだ」
宴会場は静まり返り、彼らの嘲笑だけが響いている。
社交界の名士や若い実業家たちが、スマホを掲げて撮影を始めている。
淳一がしゃがみ込み、ワインで濡れた私の頬を軽く叩いた。
「これで分かっただろう。お前の本当の居場所が」
その時、入り口が騒がしくなった。
大広間に武司が入ってきた。背後には完全武装した護衛たちが続き、その胸には家紋が冷たい光を放っている。彼は一人の少年の手を引いていた。
淳一は即座に背筋を伸ばし、顔に媚びへつらう笑みを張り付けた。
彼は素早く私に向き直り、低く威圧的な声で告げる。
「千佳、失せろ。俺に恥をかかせるな」
興奮で身震いしながら、淳一は一歩前へ進み出た。
「浅野奥様」
不意に、護衛の一人が隊列を離れ、一直線に私の方へ歩いてきた。その態度は恭しく、かつ切迫していた。
淳一の顔から笑みが消える。
「あいつ……今、彼女を何と呼んだ?」彼の声が裏返る。
大広間は、水を打ったように静まり返った。
全員の視線が、私の傍らに跪く護衛に注がれ、次に入り口の武司へと移る。彼らの脳内で、致命的な答えが狂ったように組み上がっていく。
淳一がよろめき、背後の椅子をなぎ倒した。その声は完全に引きつっていた。
「浅野、奥様……?」
