第4章
空が私の胸に飛び込んできた。その小さな手は、必死に私の腰にしがみついている。
「ママ!」
空が顔を上げ、私の額の血とドレスの酒染みを目にした瞬間——そのあどけない顔が苦悶に歪んだ。
彼の瞳が赤く染まる。
それは泣き腫らした赤ではない。武司の瞳の中に幾度となく見てきた、あの色だ。
殺意の色だ。
大粒の涙が雨のようにこぼれ落ちるが、その痩せた身体は激しく震えている。
恐怖ではない。憤怒による震えだ。
「誰がやった?」
五歳の子供とは思えない、不自然なほど冷徹な響き。その場にいた全員の背筋に、冷たいものが走った。
「誰が、僕のママに手を出したんだ!」
私は彼に声をかけ、抱きしめて安心させたかった。
だが、久美子には忍び寄る破滅の足音が聞こえていないらしい。彼女はまだ私を辱める快感に浸っており、空の必死の抗議すら滑稽なものとして映っているようだった。
「あら、この子が例の子供?」
久美子は一歩踏み出し、空を見下ろした。
「もうこんなに大きくなって。まさか千佳、あの頃から淳一の目を盗んで浮気してたわけ?」
彼女は指を伸ばし、空の額をぐいと指先で小突いた。
「それとも、どこかの孤児でも拾ってきたの? あんたの母親みたいにね——愛されない者同士、お似合いの親子ってこと?」
空の小さな体が、完全に硬直した。
ゆっくりと顔を上げる。その深茶色の瞳には、武司と同じ危険な気配が満ちていた。
「おばさんが、ママを傷つけたのか?」
恐ろしいほど静かな声だった。
久美子は、周囲の客たちが恐怖に顔を引きつらせて後ずさりしていることにも気づかない。彼女は勝ち誇ったように言い放った。
「ええ、私がやったのよ! それがどうしたの?」
「このクソガキ、その売女の母親を庇おうってわけ?」
宴会場の空気が、凍りついた。
誰もが疫病でも避けるかのように、四方へと逃げ惑う。ただ久美子だけがその場に立ち尽くし、高笑いを上げていた。
不意に、空が無邪気な表情を取り戻した。可愛らしい笑顔をその顔に浮かべる。
「ねえ、ちょっと屈んでくれない?」
「僕のパパが誰か、こっそり教えてあげる」
久美子は一瞬躊躇したが、訝しげに腰をかがめ、顔を近づけた。
パァン!
乾いた破裂音が、広いホールに響き渡った。
久美子の頬に、五歳児の小さな手形がくっきりと浮かび上がる。彼女は呆然と立ち尽くし、信じられないといった様子で頬を押さえ、空を見つめた。
「これが報いだ。……クズ」
空が冷たく言い放つ。その幼い声には、死神のような鎮静さが宿っていた。
「この、ガキがぁ——っ!」
我に返った久美子が、逆上して手を振り上げる。
「やめろ!」
横から飛び出してきた淳一が、久美子を突き飛ばした。不意を突かれた久美子は悲鳴を上げ、無様に床へと転がる。
「てめぇ、正気か!?」
淳一の顔は紙のように白く、声は篩のように震えていた。
「何やってるか分かってんのか!!」
彼は床に這いつくばる久美子を指差し、ほとんど咆哮に近い声で叫んだ。
「その子は浅野武司の息子だぞ! ボスの息子なんだよ!」
「てめぇはボスの息子を殴ろうとしたんだ! 死ぬなら勝手に死ね、俺を巻き込むな!」
会場のあちこちから、息を呑む音が漏れた。
久美子は腰が抜け、へたり込んだまま立ち上がれない。入り口に立つ武司の姿を認め、全身の震えが止まらなくなった。
「ボス……わ、私……知らなくて……」
耳障りな金切り声だった。
「本当に、知らなかったんです!」
彼女は武司に向かって這っていき、床に額を激しく打ち付けた。ゴツン、ゴツンと鈍い音が響き、鼻水と涙が床を汚す。
「お願いします、私が間違ってました! まさか——まさか、あなたのお子さんだなんて——」
客たちは蜘蛛の子を散らすように下がり、出口へと急ぐ者もいた。
宴会場全体を、濃密な死の気配が支配していた。
カツ、カツ、と武司の靴音が響く。
その一歩一歩が、人々の神経を逆撫でする。息をするのも憚られるような、重苦しい圧迫感。
彼の視線が、私の額の血を、ドレスの染みを、そして頬に残る手形を舐めるように確認していく。
無表情だ。だがその瞳の奥では、荒れ狂う嵐が渦巻いていた。
武司は私の前に片膝をつき、傷ついた私の手をそっと持ち上げた。壊れやすい磁器にでも触れるかのような、心臓が縮むほど優しい手つきだった。
「よくも……お前を」
低く、掠れた声。そこには珍しく、嗚咽に似た響きが混じっていた。
「俺が側を離れるべきじゃなかった」
彼が見上げる。その瞳には慈愛と殺意——恐ろしいほどの矛盾が同居していた。
「お前を傷つけた奴ら——一人たりとも、生かしてはおかない」
空が私に強くしがみつく。
「パパ、あいつらを懲らしめて! 絶対に許しちゃだめだ!」
武司の姿を見た瞬間、私が必死に保っていた気丈で冷静な仮面が、音を立てて砕け散った。
私は彼の胸に飛び込んだ。抑え込んでいた無念と涙が、言葉と共に溢れ出す。
「武司、あなたがいない間に、あの人たちが私をいじめたの……」
私はまるで言いつけをする幼い少女のように、彼の胸に顔を埋めた。
「あの女が私の手を踏んで、顔をぶって、空のことまで混血児だって罵ったの……」
涙腺が決壊し、武司のシャツを濡らしていく。
この腕の中なら、もう強がる必要はない。
なぜなら、この瞬間から、私を傷つけたすべての人間が代償を支払うことになると知っているからだ。
武司の体が瞬時に硬直したかと思うと、激しく震え始めた。
恐怖ではない。
限界を超えた憤怒による、武者震いだ。
彼は片手で私を支え、もう一方の手で空の頭を撫でながら——背後の人間に向かって声を放った。
「須藤淳一」
淳一はその場に崩れ落ち、額から滝のような冷や汗を流している。
「ボス、俺は——」
「今日」
武司は囁くように言った。まるで、寝物語でも聞かせるかのように。
「お前たちは、俺の妻に血を流させた」
「俺の息子を泣かせた」
「……教えてくれ」
不意に、絶対零度の冷気が声に宿る。
「人間の首を切り落とすのに、何太刀必要か知っているか? 刃が十分に鈍ければ、肉が裂け、血管が千切れ、脊椎を削り取る感触が、そのすべてが手に伝わる」
「俺はな」
彼は笑った。その笑みは、死そのものよりも恐ろしかった。
「鈍ら刀)が、好きなんだよ」
淳一の体が、石化の呪いをかけられたように硬直した。
唇を震わせ、何かを言おうとするが、喉からはヒューヒューという引きつった喘鳴しか出てこない。
こめかみから冷たい汗が滴り落ち、両手の震えは誰にも止められそうになかった。
