第2章
由梨の視点
本来なら、こんなチャリティーオークションに参加するつもりなんてなかった。けれど、美弥がどうしてもと言うから仕方なく来たのだ。
彼女が私に見せびらかしたいだけなのは分かっている。相手にするのも面倒だ。どうせここを出て行くのだから、最後にお茶番でも見物してやろうかという気分だった。
会場は煌びやかな照明に包まれている。美弥は俊の腕に絡みつき、一番目立つ場所を陣取っていた。周囲の人々が彼女を取り囲み、媚びへつらうようなお世辞を並べている。
一方、私は会場の隅っこに追いやられ、まるで透明人のような扱いだ。奇妙なことに、誰かの視線を感じる気がしたのだが、辺りを見回してもそれらしい人物は見当たらない。私の気のせいだろうか。
やがて、オークションが始まった。
最初の数点は全く興味が湧かなかったが、オークショニアが一本のダイヤモンドネックレスを恭しく提示した時、空気が変わった。
「皆様、こちらが今宵の目玉商品——フランスの最高級ジュエリーデザイナーによる一点物でございます。九九九粒の天然ダイヤモンドが散りばめられ、『永遠の愛』を象徴しております」
オークショニアの声は熱を帯びていた。
「スタート価格は、五百万ドルです!」
会場から感嘆の声が漏れる。
美弥が俊の耳元で何かを囁くのが見えた。俊はほとんど躊躇うことなく、パドルを挙げた。
「武藤様、六百万!」オークショニアが興奮気味に叫ぶ。
美弥の顔に勝ち誇ったような笑みが咲く。
「一千万」
不意に、低く落ち着いた男の声が響いた。
会場が一瞬にして静まり返り、全員が一斉に声の主へと視線を向ける。
一人の男が立ち上がっていた。ダークグレーのスーツを着こなし、長身で、彫刻のように整った深い顔立ちをしている。
平塚弘哲。
平塚家の跡取りであり、俊の宿敵だ。前世の新聞で彼の写真を見たことがある。俊と勢力を二分し、両家は長年にわたり対立関係にあると聞いていた。
俊の顔色が瞬時に曇る。
「二千万」彼は冷ややかにパドルを挙げた。
「五千万」弘哲は眉一つ動かさずに応じる。
会場がどよめいた。
オークショニアは数秒呆気にとられていたが、慌てて声を張り上げた。
「ご……五千万! 平塚様より五千万の提示です! 他にいらっしゃいませんか?」
俊の手指がパドルを握りしめ、青筋が浮かび上がっている。美弥が不安そうに彼の袖を引いた。
「俊……」
「五千万、ワン! 五千万、ツー! 五千万、スリー! 落札です!」
ハンマーが重々しく振り下ろされた。
「おめでとうございます、平塚様!」
美弥の表情が一瞬で崩れ落ちた。下唇を噛み締め、その目には隠しきれない不満と屈辱が滲んでいる。
私の気分は、少しだけ晴れやかになった。ありがとう、平塚さん。
オークション後のパーティーでは、私は誰にも気づかれないように隅でシャンパンを飲んでいた。好都合だ。誰にも注目されたくない。
その時、グラスを手にした弘哲が私の方へ歩いてきた。
「お名前を伺ってもよろしいですか、お嬢さん」
彼の声は驚くほど穏やかだった。
私は顔を上げ、少し意外に思った。私に話しかけているの?
「由梨です」と短く答える。
「美しい名前だ」
彼はわずかに微笑むと、ポケットから精巧な小箱を取り出した。
「これを君に」
私は息を呑んだ。箱の中には、先ほど彼が落札したあのダイヤモンドのネックレスが収められていたのだ。
「平塚様、受け取れません——」
「美しい装飾品は、美しい魂にこそ相応しい」
彼は私の言葉を遮り、真摯な口調で言った。
「私の自己紹介だと思って受け取ってほしい」
その瞬間、会場中の視線が私たちに突き刺さった。
俊の顔色は土気色に変貌していた。彼は大股で私たちに近づくと、その小箱を乱暴に叩き落とした。
「テメェ、死にたいらしいな。俺の女に手ぇ出してんじゃねぇぞ」
俊は冷笑を浮かべ、腰から拳銃を抜くと、そのまま弘哲の額に突きつけた。
音楽が唐突に止まる。
誰もが息を呑み、凍りついた。
武藤家のボディガードたちが瞬時に雪崩れ込み、弘哲を包囲する。平塚家の人間も即座に銃を構え、応戦の構えを見せた。宴会場は一触即発、今にも血の雨が降りそうな緊張感に包まれた。
「俊、やめて——」
私は反射的に止めようとした。
銃口が、私に向けられた。
黒々とした銃口が私の眉間に押し当てられる。冷たい金属の感触に、全身が硬直した。
弘哲が眉をひそめる。
「武藤さん、少しやりすぎではありませんか。彼女は何もしていない」
「黙れ」
俊は私を睨みつけた。その瞳にあるのは氷のような怒りだ。
「由梨、テメェよくも俺の目の前で他の男に色目使ったな?」
「そんなことしてない——」
「まだ言い逃れするか?」
彼の声はさらに温度を失い、指が引き金にかかる。
「自分が何様のつもりだ? 名ばかりの妻だからって、何しても許されるとでも思ってんのか」
突然、美弥が悲鳴を上げた。
「俊! お願い! 撃たないで!」
彼女は駆け寄って俊の腕にしがみつき、涙声で訴えた。
「お姉ちゃんです! お姉ちゃんが間違ったことをしたのは分かってる、でも……私の顔に免じて許してあげて!」
だが、彼女の瞳の奥が一瞬、勝ち誇ったように歪んだのを私は見逃さなかった。
俊は数秒間私を睨みつけ、やがてゆっくりと銃を下ろした。
「家でたっぷりと躾けてやる」
彼は低く唸るように言った。言葉の一つ一つが氷の刃のようだ。
「今夜、俺の機嫌がいいことを祈るんだな」
そう言い捨てると、彼は美弥の手を取り、背を向けて歩き出した。
すぐに招待客たちが彼らを取り囲む。
「武藤様と西園寺様は本当にお似合いですな」
「ええ、次期武藤夫人は決まりのようですわね」
「あの隅にいた女は誰だ?」
「さあな、使用人か何かだろう」
正人と昭子も得意げに他の名家の人々と談笑している。まるで先ほどの騒動など、自分たちには無関係だと言わんばかりに。
私はその場に立ち尽くし、俊と美弥の背中を見つめていた。前世の記憶がフラッシュバックする——チャリティー晩餐会で、俊が公然と美弥との結婚を宣言し、全員が祝福の杯を挙げる光景。そして私は隅で、滑稽なピエロのように座っていた。
突然、下腹部に激痛が走った。
私はお腹を押さえ、膝から崩れ落ちそうになる。
「大丈夫か?」
弘哲が間一髪で私を支えてくれた。
額に冷や汗が滲み、痛みが波のように押し寄せてくる。だめ、ここで何かあっては。お腹の子が……。
「すみません……」私は歯を食いしばって言った。
「び、病院へ……」
弘哲は何も聞かず、すぐに私を抱えるようにして出口へと向かった。
視界が霞んでいく中、彼が電話で指示する声が聞こえた。
「車を回せ。至急、最寄りの病院へ」
そこで私の意識は途切れた。
次に目が覚めた時、私は病院のベッドの上にいた。
白い天井、消毒液の匂い、そして刺すような蛍光灯の光。
私は無意識にお腹に手を当てた。よかった、まだそこにいる。
「気がついたか」
顔を向けると、ベッド脇の椅子に弘哲が座っていた。ジャケットを椅子の背に掛け、シャツの袖を捲り上げている姿は、宴会場の時よりもずっと砕けて見えた。
「子供は……大丈夫ですか?」
「医者の話では、過労だそうだ。子供は無事だよ」
彼は温かい水の入ったコップを差し出した。
「君には休息が必要だ」
水を受け取る手が、まだ微かに震えている。
その時、携帯電話が震えた。
画面を見ると、俊からのメッセージだった。
『テメェ、他の男と消えるとはいい度胸だな』
『由梨、お前には反吐が出る』
『戻ってこい。今すぐだ』
その文字を眺めても、私の心には何の波風も立たなかった。前世の私なら、こんなメッセージを見ればすぐに飛んで帰り、泣きながら謝罪し、許しを乞うていただろう。
だが、もう違う。
突然、病室のドアが乱暴に開け放たれた。
俊が飛び込んできた。その顔色はどす黒く、ベッドの傍らに座る弘哲を認めると、瞳の闇がさらに深まった。
「出て行け」彼は弘哲に吐き捨てた。
弘哲は動じず、静かに彼を見据えた。
「武藤さん、ここは病院です。言動を慎んでいただきたい」
俊はズカズカと歩み寄ると、私の髪を無造作に掴み、ベッドから引きずり起こした。
「このクズが!」
彼の手が振り上げられ、乾いた音と共に私の頬を強打した。
「よくも美弥をあんな目に遭わせやがって!」
頬が焼けつくように熱い。耳の奥でキーンという音が鳴り響く。
美弥をあんな目に? どういうこと?
