第1章

「きれいね」私は言った。

 骨董品店の中は、埃と古い木材の匂いがした。芽依は鏡台の前に立ち、白い肌が黒いベルベットのドレスによく映えている。

 私は芽依の首にルビーのチョーカーを留めた。深い赤の石が、喉元のくぼみにぴたりと収まる。

 さっきまで天気の話で私と談笑していた店主が、レジのところで動きを止めた。顔を上げる。

 丁寧な接客の笑みが、すっと消えた。

店主はレシートをプリンターからむしり取り、くしゃくしゃに丸めてカウンターへ投げ捨てた。

「出てけ」

私は目を見開いた。

「……えっ?」

 店主はガラスケースの向こうから回り込み、私の腕をつかむと、そのまま入口へ突き飛ばすように押した。

「出てけ、この店から。気持ち悪い、ひん曲がった変態が」

「触らないで!」私は芽依を引き寄せた。心臓が肋骨を叩くみたいに脈打っている。

 店主は私たちを歩道へ押し出し、扉を叩きつけるように閉めた。

 ガラス越しに、店主は一片の容赦もない嫌悪をむき出しにして私を睨みつけていた。

 車に乗り込むなり、私は反射的にドアロックをかけた。指が白くなるほどハンドルを握り締めたまま、車を流れに乗せる。こぶしの骨が痛むほどだ。

「ママ、怒らないで」

 後部座席から、芽依の柔らかな声がふわりと届く。ルームミラーで覗くと、芽依はまったく怯えていなかった。代わりに、小さな指でルビーのチョーカーの銀の留め金をそっとなぞっている。

「怒ってないわ、いい子」私は震える息を押し込め、ハンドルを握る力を少しだけ緩めようとした。

「あの人がただ……すごく失礼だっただけ」

「大丈夫」芽依はか細い顎を少し上げ、午後の日差しを深紅の石に当てた。

「すっごく気に入った。つけてくれてありがとう」芽依は鏡の中の自分をまっすぐ見つめた。瞳には無垢な喜びが満ちている。

「私、かわいく見えるよね? ね?」

 その姿を見た瞬間、胸の奥で渦巻いていた焦りが、ようやく溶けていった。私は微笑み返す。

「きれいだよ、お姫さま」そう囁いて、私は視線を道路へ戻した。

 家に着くと、大輔はキッチンでコップに水を注いでいた。いつものパリッとしたボタンダウンシャツ。愛情深い夫、そのものの姿だ。

「さっき、信じられないくらいヤバい人に絡まれたのよ」私はそう言いながら鍵をカウンターへ放った。

 大輔は水の入ったコップを私に渡そうとして、ふっと止まった。彼の目は私の顔を素通りし、芽依の首元に釘づけになる。

「ルビーのチョーカーを買って――」

 コップが指の間から滑り落ちた。タイルに叩きつけられて、派手な音を立てて割れる。水が大輔の靴に跳ねた。

「大輔?」

 大輔は片づけようともしない。私の顔も見ない。ルビーを凝視したまま、ゆっくり芽依のほうへ歩み寄る。

「それ、あんたがつけたのか?」

「ええ、誕生日の少し早いプレゼントで――」

「『自分で』やったのか?」大輔が遮った。私たちの間の距離が、息をする間もなく詰められていく。十年間知っていた温もりは消え、そこにいるのは見知らぬ男だった。

「もちろんよ。留め金を私が直接留めたわ」

 大輔は私から後ずさった。まるで私が病気でも持っているかのような目つきで。

「荷物をまとめろ」彼は言った。

「離婚する。今日だ」

 息が詰まる。

「……何? 大輔、頭がおかしくなったの?」

 私は彼の腕に手を伸ばした。何かの催眠みたいなものから引き戻したくて必死だった。

 大輔は乱暴に身を引き、私の手を叩き落とした。

「やめろ」唾を吐くように言う。胸が激しく上下している。

「二度と俺に触るな」

 手のひりつきを理解する間もなく、大輔は芽依の手首をつかんだ。優しくなんてない。

「部屋に行け」命じると、階段へ引きずるように連れていく。

「ママ!」芽依がかすれた声で泣き、つまずきながらついていく。小さな指が反射的に喉元の赤い石を握りしめていた。

「大輔、やめて! 芽依が痛がってる!」私は追いかけ、踊り場の手前まで駆け寄った。声が裂けそうだ。

「離婚って、首飾りのせいで? お願い、話してよ!」」

 大輔は二段目で足を止め、私を見下ろした。

「虫唾が走る」囁くような声だった。

 そして芽依を引っ張り上げるようにして階段を上がり、そのまま姿を消した。

 私は廊下で固まったまま、脚が震えて立っていられず、手すりにしがみつかなければ倒れてしまいそうだった。

 こんなの現実じゃない。骨董品屋の店主は頭のおかしい他人だったとしても、大輔は? 十年連れ添った夫が?

 胸がきゅっと締め付けられる。壁がじわじわ迫ってくるようで、息が浅くなった。誰かに「お前は正気だ」と言ってほしかった。自分が現実を見失っていないと、保証してほしかった。

 私はよろめくように浴室へ入り、扉を乱暴に閉めて鍵をかけた。指が震えて、スマホの画面がうまく反応しない。親友の桜子に電話をかける。

 二回目の呼び出しで出た。

「玲奈? 声、ひどいよ」

 私は冷たいバスマットにへたり込んだ。

「みんなおかしくなってる。骨董品屋の店主に外に放り出されたし、今度は大輔が離婚するとか言い出して……」

「ちょ、待って。落ち着いて」桜子が言う。

「離婚? 何が原因なの」

「ネックレス。芽依に買ったルビーのチョーカー」

「ありえない。写真送って」

 私は店で撮った芽依の写真を、急いで桜子に送った。

 電話の向こうが、すっと静かになる。息を呑む音が、はっきり聞こえた。

「桜子? ただのアクセサリーだよね?」

「ネックレス、だよね」桜子の声は硬く、短く切り詰められていた。

「玲奈、よく聞いて。あのチョーカー……あんたが自分で芽依につけたの?」

 またその質問。まったく同じ言い回し。見えない手が胸をぎゅっと掴んだみたいに、呼吸が詰まる。

「……うん」私は囁いた。

「私がつけた」

 受話口に、重い沈黙が垂れ下がる。

「桜子?」

「あなたと出会わなければよかった」その声に混じる剥き出しの毒に、私はびくりと肩を震わせた。

「声も聞きたくない。あんたは最低で、気持ち悪い、病的な怪物だよ」

「桜子、待っ――」

 通話が切れた。私はすぐに名前を押してかけ直す。けれど留守番電話に直行した。

 床から跳ね起き、浴室のドアを勢いよく開け放つ。廊下を駆けるようにしてリビングへ戻った。

 大輔はタンスから私の服を引っこ抜き、乱暴にダッフルバッグへ詰め込んでいた。

「大輔、やめて!」私は彼の腕を掴んだ。

「私が何をしたのか言って! どうして、たかがアクセサリーで――」

 大輔は振り向きざまに、私を平手で殴った。

 頭がドア枠にぶつかり、鈍い音がした。口の中に、鉄みたいな血の味が広がる。

 衝撃を理解する間もなく、大輔は前へ踏み込み、私の喉を掴んだ。壁へ叩きつけられる。空いたほうの手が、ベッドの上で口を開けたダッフルバッグの脇ポケットへ滑り込んだ。

 冷たい鋼が、顎の下にまっすぐ押し当てられた。

 私は喘いだ。太い指を引き剥がそうと爪を立てても、息が詰まり、自分の呼吸にむせ返る。

「被害者ぶるな、玲奈」大輔が低く唸る。襟元から消毒用アルコールの強い匂いが立ち上り、鼻の奥まで侵入してきた。

「自分が何をしたか、わかってるだろ」

「わかんない! 誓って言うけど、知らない!」

 刃がさらに押し込まれる。温かい血がつうっと流れて首筋を伝った。

「どんなにいかれた獣だって、自分の子は守る。それなのに、お前はどうだ?」大輔は濁りのない憎悪で私を見据えた。

「お前は人間ですらない」

 大輔は喉から手を乱暴に引き剥がし、詰め終えたダッフルバッグをベッドからひったくった。私を廊下へ突き飛ばすように押しやり、屋根裏へ続く扉を蹴り開ける。

 私は敷居をまたいだところでつまずき、埃まみれの床板に強く打ちつけられた。

 起き上がろうとした瞬間、闇の中から私の服が入った重いバッグが飛んできて、肋骨に容赦なく叩きつけられる。

 大輔はためらいもしない。取っ手を掴んで重い扉を引き、勢いよく閉めた。

 ドアの音が、かちりと鳴った。

 完全な暗闇が、私を丸ごと飲み込んだ。

 私は扉へ這い寄り、散らばった自分の服に足を取られながら体重をかけて木を押した。拳で叩きつけ続け、拳の皮が裂けるまでやめられなかった。

 床板越しに、階下の大輔の声が聞こえた。さっきまでと違う。優しく、宥めるように。

「大丈夫だよ、芽依。パパがいる。あいつにお前を傷つけさせない」

 私はざらついた木に背を預けてずるずると座り込み、膝を抱えた。屋根裏の息苦しい静けさが耳の奥まで押し込み、恐怖に跳ねる自分の心臓の音だけがやけに大きく響く。

「どうして!」私は真っ暗闇に向かって叫んだ。

「殺すつもりなら、せめて理由を教えてよ!」

 返事はなかった。

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