第3章

 廊下の向こうへ、足音が遠ざかっていった。

 私は跳ね起きた。右手首は暖房用ラジエーターの配管に鎖で繋がれている。だが、隣の重たい鋼鉄の椅子は床に固定されていなかった。背に腹は代えられない。私は椅子を乱暴に前後へ揺さぶり続け、錆びた溶接部分がついにパキンと裂け、頑丈な鋼鉄の脚が一本、手元に残った。

 その金属の棒を配管の裏へ突っ込み、全体重をかけて押し込む。

 古いバルブが呻くように鳴り、シューッと蒸気を噴きながら、配管がほんの少しだけ外側へたわんだ。

 私は腕を思いきり引き抜き、壊れた縁の上を、鍵のかかった手錠をずるりと引きずって通した。手の皮膚が裂けて血が滲んだが、拘束は解けた。

 隣の診察室は鍵が開いていた。芽依は紙のシーツが敷かれた診察ベッドの上で、身を縮めて震えている。

 私は芽依を抱き上げ、声を出さないよう口を手で覆うと、地上階の窓から凍えるような雨の中へ身を滑り出した。

 私たちは濡れた芝生の上を、行き先もわからぬまま駆けた。嵐は数秒で服の奥まで染み込み、息をするたび肺が焼けるように痛んだ。

「私、狂ってるの?」そんな考えが、一瞬だけ忍び込む。

「自分の娘を傷つけて、気を失ってた……?」

 芽依の頬に触れる。芽依は迷いなく私の手のひらに頬を寄せてきた。私を、まるごと信じ切って。違う。私は狂ってなんかいない。あのイヤリングが証拠だ。大輔も、桜子も、警察署長も――全員がグルだ。そして私は、連中の企みを根こそぎ叩き潰してやる。

 裕福な住宅街のほうへは走らなかった。近所の家にも駆け込まない。必要なのは、この町の端っこにいる人間だ。連中のルールで動かない、はみ出し者。

 私は芽依を引きずるようにして、市営の埋立処分場へ向かった。

 未舗装の作業用道路の突き当たりに、錆びた移動式トレーラーが一台、郡の霊安室に繋がれる形で置かれていた。持ち主は古川――不名誉な形で名を落とした監察医だ。ひどい酒癖のせいで、町の連中は彼を疫病神みたいに避けている。今夜に限っては、それが私にとって唯一の望みだった。

 私は金属の扉に拳を叩きつけた。

 古川が開けた。汚れた灰色の肌着姿。安物のバーボンのきつい匂いと、消毒用ホルマリンの冷たい匂いが皮膚から立ちのぼる。目は充血し、疲れ切っていた。

「お願い……!」私は雨を手で拭いながら、息も絶え絶えに言った。

「あの人たち、私たちを殺そうとしてるの」

 古川は質問をしなかった。私を見て、それから腕の中で震える子どもを見た。無言で身を引き、通してくれた。

 私は散らかった台所のテーブルに座り、何も隠さず話した。骨董品店のこと。大輔が突然暴力を振るったこと。桜子の裏切り。倉田にラジエーターへ繋がれたこと。

 古川は琥珀色の液体をなみなみ注いだグラスを置き、ゆっくり一口すすった。表情は、妙なくらい無色だった。

「チョーカーを見せろ」そう言った。

 私はためらった。鼓動が耳の奥で暴れる。芽依の濡れた襟元をそっと引き下げ、赤い石を露わにする。

 古川はテーブル越しに身を乗り出し、それを観察した。息を呑むこともしない。憎悪で顔が歪むこともない。ただ小さく頷き、背もたれに体を預けた。

「それ、あんたが自分で付けたんだろ」

 筋肉が凍りついた。私は芽依を胸にきつく抱き寄せ、いつでも扉へ飛び出せるよう身構える。その言い回しを口にした人間は、例外なく数秒後に化け物になった。

 古川は両手を上げ、手のひらを見せた。

「落ち着け、玲奈。襲ったりしねえよ」

 私は充血した目を見つめ返した。そこには、波ひとつない静けさがあった。

「……うん」私は囁いた。

「私が付けた」

 古川が笑った。友好的でも、残酷でもない。恐ろしい秘密を知っている男が浮かべる、薄い嘲りのような笑みだった。

「お前の問題の根っこはな」古川はグラスの酒をくるりと回しながら言った。

「自分で喋っちまったことだ。自分の口で認めた」

「どういう意味よ!」私は食ってかかった。

「つまり、自業自得ってことだ。だってお前があのチョーカーを買ったんだからな」

 私は古川を見つめた。血管を駆け回っていたアドレナリンがすっと引き、代わりに苦く空っぽな失望が胸に沈んでいく。

「そんなの答えになってない!」声を荒らげて吐き捨てた。

「買ったに決まってるでしょ!」

「決まってる、か」古川は低く言った。

 私は膝から崩れ落ちた。濡れた砂混じりの汚れが、リノリウムの床越しにジーンズの奥まで染み込む。私は古川のごつごつした、たこだらけの手を掴んだ。

「お願い……。私を殺そうとしてこなかったの、あなただけよ」頬の雨水に涙が混じる。

「いくらでも払う。うちには莫大な信託財産がある。私の持ってるもの、全部あげる。だから教えて……なんで夫は、たかが宝飾品ひとつのことで私を殺したがるの!」

 古川は私を見下ろした。あの薄笑いが消え、重い溜息をつくと、両肩を掴んで私を引き起こした。

「俺がやれる限りの正解は、もう言った」古川は言う。

「お前はこの町を、まだちゃんと見てねえだけだ」

 そのとき、汚れたブラインド越しに赤と青の光が一気に走った。外でタイヤが砂利を跳ね上げ、けたたましいサイレンの中、武装した保安官代理たちの怒鳴り声が秒ごとに近づいてくる。

 古川の空気が瞬時に変わった。彼は前に躍り出て、私の腕から芽依をひったくった。

「やめて! 返して!」私は叫び、持てる力すべてで飛びかかった。

「抵抗するな!」古川は空いている腕で私を突き飛ばし、壁に押しつけたまま、芽依はしっかり抱え込む。

「聞け! 奴らが追ってるのは『凶暴で頭のおかしい母親』だ。お前が外であの子を抱いてるところを見つけたら、狙いはお前でも、躊躇なくこの子ごと撃ち抜く!」

「娘を置いていけるわけない!」私は泣きじゃくり、必死に暴れた。芽依も、騒音と私のむき出しの恐怖に怯えて泣き出す。

「返してよ!」

「芽依が郡の霊安室で俺と一緒にいれば、州の管轄――保護対象になる。倉田の手下どもも、監視カメラの前で子どもを処分なんてできねえ。だがその扉からお前と一緒に出たら、お前らは二人とも泥の中で死ぬ。そうしたいのか?」

 私は動けなくなった。残酷な理屈が、恐怖の靄を突き破って刺さる。サイレンはもう耳を裂くほど近い。私は芽依を見た。胸の奥が、物理的に痛むほど締めつけられる。

「大丈夫よ、芽依。ママがなんとかする。必ず迎えに来る、約束」私は息を詰まらせながら言い、涙で濡れた額に口づけた。

 古川は一秒も与えなかった。彼は私の腕を掴み、トレーラーの裏口へ引きずっていく。

 重い扉が勢いよく開かれた。外は暴風雨だ。凍える雨が容赦なく顔を叩く。

「行け!」古川は風に負けじと怒鳴った。

 私は扉の枠に爪を立て、敷居に靴を踏ん張り、すすり泣く小さな娘から目を離せなかった。置いていくのは腕をもぎ取られるみたいだった。でも残れば、芽依が死ぬ。

「誓って! あの人たちに芽依を傷つけさせないって!」涙で視界が滲む中、私は叫んだ。

「約束して!」

 頭上で雷が轟いた。古川は扉枠を掴んで身を乗り出し、私の顔にぐっと近づいた。鼻先が触れそうな距離だ。

「誓う」古川はきっぱり言った。

 そして、嵐の轟音の向こうからでもはっきり届くように、彼は私の耳元へ口を寄せて言った。ほんの数語だけ。

「……何!?」私は凍りついた。

 衝撃を飲み込む間もなく、古川は私を暗い路地へ突き飛ばし、扉を叩きつけるように閉めた。

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