第1章

夜九時四十三分、笹原沙耶香のスマートフォンの画面が、淡い光を放った。

『都合が合えば、俺たち、関係を終わりにしよう』

間髪入れずに、二通目のメッセージが届く。

『千春の精神状態が不安定なんだ。彼女、もうあまり時間がない』

沙耶香はダイニングチェアに腰掛けたまま、そのLINEのメッセージをただじっと見つめていた。手にしていた箸が、宙でぴたりと止まる。テーブルに並べられた寿司はとうに食べ頃を過ぎ、精巧な和紙の箱に収められた苺大福は、室温に溶けて僅かに形を崩していた。

今日は彼女の二十七歳の誕生日。そして、上野誠一と出会って、四年と三ヶ月が経つ日でもあった。

彼女は静かに箸を置くと、そっと長い息を吐いた。

「ルビー、いる?」

沙耶香は、か細い声で呼びかける。

【ルビー恋愛システム、起動。契約者笹原沙耶香の心拍数及び血圧に異常を検知。感情調整を実行しますか?】

「ううん、大丈夫」沙耶香は力なく首を振った。「ただ……まさか今日、こんなメッセージを受け取ることになるなんて、思ってもみなかったから」

彼女の視線が、食卓の向かい側にある空席へと落ちる。

四年前の今日、彼女は病院ボランティアとして、初めて『神の手』と称される消化器外科医、上野誠一と出会った。あの日、意識を失った患者を庇い、倒れかかってきた点滴スタンドを咄嗟に受け止めた。その時、腕に刻まれた一本の傷跡。

その傷を手当てしてくれたのが上野先生で、それが、二人の物語の始まりだった。

ボランティアから友人へ、友人から恋人へ。

四年と三ヶ月という月日が、この一瞬で、ひどく空虚なものに思えた。

彼を『攻略』し、自分を愛させることができると信じていた。それなのに、すべてが自分の思い込みに過ぎなかったなんて。

沙耶香は諦めきれず、スマートフォンを手に取り、上野誠一に電話をかけた。

誰も出ない。

もう一度かける。やはり、応答はない。

三度目。コール音が虚しく響くだけ。

四度目で、ようやく電話が繋がった。

「何か用か? さっきまで手が離せなくて」

受話器の向こうから聞こえてきた上野の声は、まるでただの知人に話すかのように素っ気なかった。

「メッセージ、見たわ」沙耶香は必死に声の震えを抑え、平坦さを装った。「今日、私の誕生日よ。約束、してたじゃない……」

言葉が終わらないうちに、電話の向こうから甘えた女の声が割り込んできた。

「誠一くーん、もう服脱いじゃったよー? 早くこっち来てよ」

沙耶香はスマートフォンを強く握りしめ、指の関節が白く浮き上がる。

間違いない。河野千春の声だ。

大学病院の教授の娘で、彼女より二つ年下の医学生。そして、末期の胃癌を患う『可哀想な人』。

「誠一、私たち、まだ正式に別れたわけじゃないわよね?」

沙耶香の声は、不思議なほど穏やかだった。

電話の向こうで、数秒の沈黙が流れる。

「誤解だ」上野の声が、少し低くなった。「千春の犬を風呂に入れてやってたんだ。あいつが、なかなか言うことを聞かなくてな」

「そう?」沙耶香は静かに応じた。「奇遇ね。河野さん、犬アレルギーで、飼ってるのは短毛種の猫だって記憶してるけど」

受話器の向こうが、再び沈黙に包まれた。

「もし私たちが別れたら、システムのルールに従って、私はこの世界から消えなきゃならないの」

沙耶香は、ただ事実を告げるかのように淡々と言った。

足音と、ドアが閉まる微かな音が聞こえ、上野が静かな場所に移動したのがわかった。

「沙耶香、いつもみたいにそういう言い方をするのはやめてくれ」彼の声が、さらに低くなる。「これは一時的な措置なんだ。千春の病状は君も知ってるだろ。胃癌のステージⅣで、余命三ヶ月だって宣告されてる。彼女の最後の願いを叶えてやりたいだけなんだ。そうすれば、俺たちはまた元に戻れる」

「なぜいつも、『消える』なんて言って俺を脅すんだ?」上野の声が、不意に苛立ちを帯びた。「何かあるたびに、『攻略失敗』だの『システムに強制排除される』だの……。何度もそんな嘘で俺を試して、一体何がしたいんだ? 俺は医者だぞ。人を救うのが俺の仕事なんだ。目の前で人が消えるのを、見過ごせるわけないだろうが!」

沙耶香は窓の外に広がる夜景に目をやり、口の端に自嘲の笑みを浮かべた。

自分の言葉は、誠一にとってはすべてが嘘にしか聞こえていなかったのだ。彼はずっと、自分が本当にこの世界から消える存在だなんて、微塵も信じていなかった。

「沙耶香」上野が、諭すように言った。「君は俺の立場を理解するべきだ」

「理解?」沙耶香は静かに問い返す。「あなたは今、河野千春の家にいて、彼女と一緒にいる。その状況で、私に理解を求めるの?」

「だが、末期癌患者の頼みを、俺に断れと?」

上野の声には、深い疲労が滲んでいた。

沙耶香は目を閉じ、深く息を吸い込む。

「誠一、一つだけ聞かせて。あなたはまだ、私のことを愛してる?」

電話の向こうは、長い、長い沈黙に支配された。

「沙耶香」やがて上野は、冷静で、それでいて有無を言わせぬ響きを持った声で言った。「秋分の日、正式に終わりにしよう。その頃には千春の治療も一段落する。ちゃんと、話し合えるはずだ」

沙耶香は答えなかった。

彼女は通話を切り、スマートフォンの画面を暗くする。窓の外の夜空を見上げると、雲間に浮かぶ欠けた月が、まるで切れ味の悪いメスのようにも、誠一との関係そのもののようにも見えた。

【攻略対象との関係性が著しく悪化。攻略終了プロトコルの起動を推奨します】

沙耶香はスマートフォンをテーブルに置き、上野を庇ってできた腕の傷跡を、そっと指でなぞった。

「起動して」彼女は囁いた。「もう、辛いのは、嫌」

「家に帰りたい」沙耶香は、消え入りそうな声で言った。「元の世界に。そこには、お母さんが待っててくれる。私の大好きな、お味噌汁とたこ焼きを作って」

彼女の右手は、無意識に自分の脚を撫でていた。元の世界では、彼女の右脚には障害があり、歩行には装具が必要だった。それでも、あの世界のほうが、ここよりもずっと暖かかった。

「この世界では、誰も私を愛してくれない」

沙耶香は再びスマートフォンを手に取り、習慣的にインスタグラムを開いた。フィードのトップに表示されたのは、十五分前に投稿された河野千春のストーリーだった。

写真には、上野誠一が彼女のために海老天の衣を剥がしている姿が写っている。あの『神の手』と称される指が、黄金色の衣を一枚一枚丁寧に取り除き、中の白く柔らかな身を剥き出しにしていた。

添えられたテキストが、沙耶香の胸を抉る。

『神の手は私のためだけのもの♡ 今夜の天ぷらは衣まで綺麗に取ってくれたの #専属サービス #神の手 #胃癌なんて吹き飛ぶ幸せ』

まるでメスで心臓を直接切り裂かれたかのような、鋭い痛みが走った。

この四年間、上野が彼女のためにそんな些細なことをしてくれたことは、一度もなかった。

それは彼が医者として多忙だからで、彼の性格が不器用でぶっきらぼうだからだと、そう思い込もうとしていた。

でも、違った。

ただ、自分が彼にとって、その程度の存在でしかなかったというだけのこと。

彼女が捧げた四年間は、上野誠一の目には、茶番に過ぎなかったのだ。

「ルビー」沙耶香はスマートフォンを置き、まるで他人事のように平坦な声で尋ねた。「攻略終了プロトコルを実行する時、私は苦痛を感じるの?」

【いいえ。プロトコル実行は実際の生理的反応を引き起こしますが、ユーザーの要求に応じて苦痛の80%を遮断することが可能です。また、離脱方法と正確な時間を指定できます】

「わかったわ」沙耶香は頷き、ふと、こう言った。「それじゃあ、あの『神の手』を持つ上野誠一の手術台の上で死ぬことを選ぶ」

【選択を確認しました。離脱方法:手術中の死亡。具体的な時間をご指定ください】

「秋分の日、午後三時四十五分」

沙耶香の声には、もう一片の震えもなかった。

「その時まで、私の体を末期の胃癌患者の状態にシミュレートして。ただし、どんな医療検査でも発見されないように症状をコントロールしてちょうだい。彼に、直接発見させたいの」

ルビーは、数秒間沈黙した。

【警告:当該シミュレーションは極めて重篤な苦痛を伴います。末期胃癌患者は、激しい腹痛、消化管出血、重度の貧血、急激な体重減少を経験します。苦痛の大半を遮断したとしても、常人には耐え難いレベルです。本当にこの方法を選択しますか?】

「ええ、お願い」沙耶香は、はっきりと答えた。「最後の瞬間まで、彼に気づかせたくないから」

彼女は目を閉じる。

手術台の前に立つ上野誠一が、執刀する患者が自分だと気づいた時、あの常に冷静沈着な顔は、どんな表情を浮かべるのだろう。

驚愕? 罪悪感? それとも、ただ予期せぬ事態に直面しただけの、プロフェッショナルな無表情?

どちらでも、もう、どうでもよかった。

彼が衝撃を受ける顔を想像する。

笹原沙耶香という存在が本当にこの世界から消えたと知った時、彼は後悔するだろうか。自分が何を失ったのかを、理解するのだろうか。

それともすぐに彼女を忘れ、河野千春との新しい人生を歩み始めるのだろうか。

その問いに、答えはない。

だが、沙耶香はもう気にしなかった。

ただ、去り際に、上野誠一の記憶の中に、永遠に消し去ることのできない傷跡を、ひとつだけ残したかった。

【ルビー恋愛システム:記録。離脱まで、残り七日。ユーザーの感情状態:決然。心拍数:65bpm。血圧:110/70mmHg】

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