第2章
金曜日の朝。
笹原沙耶香はベッドから身を起こしたが、額は焼けつくように熱く、全身から力が抜け落ちていた。
窓から差し込む秋の陽光が、気怠い瞼を刺す。彼女は懸命に腕を伸ばし、ベッドサイドテーブルのグラスに手を伸ばしたが、中はすでに空だった。
「誠一、お水……」
無意識に彼の名を呼び、はっと我に返る。
上野誠一はもう、この部屋を訪れることはない。
その事実が、錆びついた鈍い刃物のように、ゆっくりと彼女の心臓を抉っていく。
【警告:契約者の体温39.2℃を検出しました】
沙耶香はもがきながら立ち上がり、壁に手をつきながらキッチンへ向かった。震える指で蛇口をひねると、冷たい水が火照った手のひらを濡らしていく。
「ルビー、今日、病院で彼と話すはずだったのに……」
シンクに寄りかかり、か細い声で呟いた。
【攻略終了の前兆が発現しています。あなたの身体は、この世界からの離脱準備を開始しました。免疫力の低下はその第一段階です。安静にすることをお勧めします】
沙耶香は力なく首を振り、苦笑を浮かべた。一週間前の、胸が張り裂けそうになったあの夜の記憶が、熱に浮かされた頭に蘇る。
「わからないよ」電話の向こうから聞こえる上野誠一の声は、苛立ちと疲労が混じっていた。「なんで君は、いつも千春を敵視するんだ? 彼女は教授の娘さんで、先生には世話になった恩もある。僕が面倒を見るのは当然だろう」
沙耶香はスマートフォンを強く握りしめ、指の関節が白く浮き上がる。「面倒を見る? あの関係を、あなたは『面倒を見る』って言葉で片付けるの?」
「沙耶香」誠一の声が、諭すように和らいだ。「僕が君を一番に考えていることは、知っているはずだ。でも、千春には確かに誰かの支えが必要なんだ。彼女は病人なんだから」
「あなたはただ、自分の行動を正当化するための言い訳を探しているだけよ」沙耶香は、不思議なほど冷静に言い放った。
電話の向こうで、数秒の沈黙が流れる。
「……まさか彼女を『不倫相手』にするわけにはいかないだろ?」
誠一はそう囁いた。その声には、聞く者の心を凍らせるような、微かな皮肉が滲んでいた。
「僕たちが終われば、彼女はもう不倫相手じゃなくなる。そうだろ?」
沙耶香は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
「上野誠一、もし別れたら、私は二度とあなたの元には戻らない。これが、最後の警告よ」
そしてそれは、彼に縋る、彼女の最後の試みでもあった。
「僕の元に戻らないで、どこへ行くって言うんだ?」誠一は突如、感情的になった。「この街でお前に僕以外の誰がいる! 誰がお前を四年間も支えてやったと思ってるんだ!」
沙耶香は黙って彼の激昂を聞いていた。やがて彼の声は、まるで何事もなかったかのように落ち着きを取り戻す。
「千春はもともと、世話が必要な後輩に過ぎない。彼女の状況は君も知っているだろう。治療が終わったら、僕たちはまた……」
沙耶香は、彼の言葉が終わる前に通話を切った。
【ルールに基づき、一ヶ月以内に親密度を回復すれば、攻略任務は失敗と見なされません】
思い出は、熱に浮かされた心をさらに重くする。
沙耶香はなんとかベッドに戻り、スマートフォンを手に取って時間を確認した。午前十時半。誠一と約束していた時間は、とうに過ぎていた。
その時、画面が震え、上野誠一の名前が表示された。沙耶香は深呼吸を一つして、応答ボタンを押す。
「どこにいるんだ?」電話口から聞こえてきたのは、苛立ちを隠そうともしない誠一の声だった。「診察室で三十分も待ってるんだぞ」
「ごめんなさい……」沙耶香は弱々しく答えた。「熱があって、起き上がれなくて」
「君が病気になるなんて珍しいな」誠一の声には、あからさまな疑いが含まれていた。「どうして急に熱なんか出すんだ?」
沙耶香は答えず、ただ目を閉じて額の熱に耐えた。
「僕に会いたくないから、口実を作ってるんじゃないのか?」誠一は続けた。「今日は君と話すために、わざわざ手術の予定を調整したんだぞ」
「ごめんなさい」沙耶香は囁いた。「本当に、病気なの」
電話の向こうから、わざとらしい溜息が聞こえた。
「わかった。じゃあ、ゆっくり休んでろ」誠一の口調が、少しだけ和らぐ。「午後は千春の様子を見に行かないと。また胃が痛むらしい。あの子は本当に食事に気をつけないからな」
「あの子?」沙耶香は思わず反論した。「彼女、私より二つしか年下じゃないわ」
「でも、君よりずっと脆いんだ」誠一は、まるで聖人のように痛ましげな声で言った。「誰かがそばで見ていてやらないと」
沙耶香はスマートフォンを握りしめ、三日前に病院の屋上庭園で見た光景を思い出していた。
その日、彼女は誠一が一番好きな海老とアスパラの肉巻き弁当をわざわざ作り、彼を驚かせようとしていた。弁当箱を手に屋上庭園へ向かった彼女が見たのは、上野誠一が河野千春を優しく抱きしめている姿だった。
誠一は慈しむように千春の髪を撫で、そして、そっと彼女にキスをした。
「いい子だ。家に帰って休みな。胃がこれ以上悪くならないように」誠一の声は、沙耶香が知らない甘さに満ちていた。
千春は甘えるように不満を漏らす。「誠一君、どうして早くあの女と別れてくれないの? もう待てないわ」
「もう少しの辛抱だ」誠一は慰めた。「もうすぐ終わるから」
沙耶香は扉の陰に立ち尽くしていた。手にした弁当箱が、まるで鉛のように重く感じられた。彼女は踵を返し、心を込めて作った弁当を、一滴の涙も流さずにゴミ箱へ捨てた。
「明日、病院に行くわ」沙耶香は電話の向こうの誠一に言った。「また改めて時間を決めて、話しましょう」
電話を切った後、沙耶香は身を起こし、解熱剤を買いに行くことにした。どんなに体調が悪くても、この腐りきった関係を早く終わらせ、すべてに終止符を打ちたかった。
マンションの玄関を出ると、東京の澄んだ秋の陽射しが、火照った肌をちりちりと焼いた。
ふらつく足取りで、近くの薬局へと向かう。
横断歩道を渡ろうとした、その時。
小さな男の子が、赤い風船を追いかけて車道へ飛び出した。視界の端で、ピンク色の小型車が猛スピードで迫ってくるのが見える。考えるより先に、体が動いていた。駆け寄って男の子を抱きしめ、歩道へと突き飛ばす。
甲高いブレーキ音。衝撃。
車は沙耶香の体に衝突し、彼女をアスファルトに叩きつけた。激痛が瞬く間に全身を駆け巡り、視界が白く霞む。それでも、運転席に座る見覚えのある顔ははっきりと見えた。
——河野千春の、怯えきった眼差し。
その視線が一瞬だけ沙耶香と交錯する。次の瞬間、ピンクの車は素早くバックし、角を曲がって走り去っていった。
【警告:深刻な外傷を検出。ただし、攻略終了日まで、契約者は死亡しません。システムが生命維持のため身体機能を調整中です】
「お嬢さん! 大丈夫ですか!」男の子の父親が彼女のそばに跪き、叫んだ。
「大丈夫です……」沙耶香は弱々しく言い、身を起こそうとした。
「本当に、本当にありがとうございました!」男の子の母親が子供を抱きしめ、涙ながらに彼女へ何度も頭を下げる。「息子の命の恩人です!」
「当然のことをしたまでです……」沙耶香は、システムによって麻痺させられた体の痛みを感じながら、なんとか立ち上がった。
「すぐに病院へ!」父親が強く言った。「検査を受けないと」
沙耶香は頷き、ポケットからスマートフォンを取り出して、上野誠一にメッセージを送った。
『交通事故に遭いました。話はまた後日にしましょう』
送信されたメッセージをじっと見つめ、彼女は自嘲の笑みを浮かべた。
彼は私のことを心配するだろうか? それとも、あの『脆くて可哀想な女の子』を慰める方を優先するのだろうか?
男の子の両親は彼女を支え、タクシーを停めながら、何度も深く頭を下げて感謝を示した。沙耶香が空を見上げると、秋の陽射しは変わらずに明るく、まるで今の出来事がすべて幻だったかのようだった。
だが、これが始まりに過ぎないことを彼女は知っていた。秋分の日まで、あと三日。
【離脱カウントダウン:3日。契約者の感情状態:平静。心拍数:95bpm。血圧:135/85mmHg】
沙耶香は目を閉じ、タクシーが病院へと向かう揺れに身を任せた。
運命は、すでに彼女のためにすべての筋書きを用意しているのかもしれない。
そして自分はただ、その通りに最後の別れを演じているだけなのだ。






