第2章
悠のオフィスは帝都でも名の通った高層ビルの一等地、いわゆるど真ん中にある。床まで届くガラス窓の向こうには、帝都随一のきらびやかな夜景が丸ごと広がっていた。
聞くところによると、以前とある都会ドラマがここをロケ地に借りたいと言ってきたことがあるらしい。ところが氷室弁護士が「1日10億」と吹っかけたせいで、話はその場で霧散した。
悠はコーヒーカップを手にソファへ腰を沈め、篠をじっと見た。
この女――服を着ていれば芸能界の清純派、脱げば完全にサキュバスだ。
「ひとつ、依頼したい件があるの。氷室弁護士に」
悠はスプーンでコーヒーをくるりとかき混ぜる。
「俺みたいな人間じゃないのに、わざわざ不二さんが頼む価値あるの?」
篠は表向きにこにこ、内心は毒づく。
(氷室様は知らないだろうけど、某方面で『人間離れしてる』って褒めてるんだよ)
「……例えば?」悠の声は冷たい。
「ベッドの上、かな」篠は必死に取り繕った。
悠の深い瞳に、淡い光がすっと差す。
「ひとつ忠告。不二さん、俺の相談料は1時間10万だ」
篠「…………氷室様、それ、ぼったくりじゃない?」
「ぼったくりより、頭の弱い金持ちが自分から金を置いていくって言い方のほうが好きだな」
篠は怒りで胸が詰まりそうになった。現世の報い、来るの早すぎだろ。
「……私の件、引き受ける? 引き受けない?」
「引き受けない」悠は考えるまでもないと言わんばかり。
「なんでよ?」
「AV男優のほうが俺より腕がいいだろ。不二さん、そっちにしたら? 嫌なら体育会系の大学生でも悪くない」
篠「…………」
酒でごまかそうとしたのが間違いだった。酔った勢いで、こんなことになって。
しかも男は山ほどいたのに、よりによって悠と寝るなんて。
最悪だ。
帝都一の美人、芸能界の清純派――その篠が、この男に足元をすくわれる?
篠は愛想笑いで押し切る。
「氷室様、そこまで根に持たなくてもよくない?」
悠はだるそうにソファへ身を預け、指先でカップを持ち上げた。
「不二さんは婚約者に埋められない穴を俺で埋めただけでも十分だろ。それに俺をホスト扱いまでしてさ」
「根に持つ?」
「根に持たない理由がないね」
篠は肘をついて額を押さえ、こめかみを揉む。怒るな。1000億だ。金のない人生なんて生きていけない。
「じゃあさ、氷室様。うちの先祖の墓でも掘り返しに行く? 仇の家の墓荒らすとスッキリするって聞いたよ。恨みって体に悪いし、胸の中にモヤモヤ溜めるとハゲるんだって。氷室様の髪のために、私が案内してあげる。うちの墓、壊そう!」
悠は篠を見つめ、さすがにその暴言に呆れたように舌を鳴らす。
「……啧。意外と親孝行だな」
「だって長く寝てたら飽きるでしょ。場所変えてあげたら喜ぶかも。引っ越しだよ? 嫌がる人いる?」
悠が小さく笑った。篠は相変わらず、信用ならない。
「不二さんって、顔は全然かわいくないのに、心だけは優しいんだな」
篠の我慢は限界に達した。生まれてこの方、誰も「かわいくない」なんて言ったことがない。悠が初めてだ。
追いかけられるのはこいつの栄誉だろうに、何を格好つけてる。
篠はソファから勢いよく立ち上がり、ローテーブルのコーヒーを掴むと、そのまま悠へぶちまけた。
「しゃべり方ってものがあるでしょ!」
悠は避けきれず、目の前でコーヒーが自分に降りかかるのを見届けるしかなかった。
白いシャツが、一瞬で汚れて色を変える。
篠「…………」
悠「…………」
我に返った篠は踵を返して逃げようとした。
だが悠は二、三歩で追いつき、開けかけたドアを手で押さえつける。腕とドアの間に篠を囲い込み、低い声で抑えた怒気を滲ませた。
「……俺にぶっかけた?」
篠の手がわずかに震える。悠の悪名は帝都では有名だ。噂が盛られているにしても、目的のためなら手段を選ばず、裏の筋とも繋がっている――そんな話ばかり。こいつに潰された人間は数えきれない、と。
法の外にいる狂犬、悠。
自分の手で血を汚すことはしない。だが、生き地獄を味わわせる方法なら百通り持っている。
「わ……私、パーキンソンで……さっきは手が震えただけで……」
「へえ。俺にぶっかける時はパーキンソンで、触る時は平気だったんだ?」
悠は篠の腰を抱き、ぐっと自分のほうへ引き寄せる。距離が近すぎて、空気が甘く濁る。
「昨夜の続きを思い出させてやろうか? 不二さん」
「……それは、結構」
篠は思った。こんな屈辱、耐えられない。悠みたいな男に媚びるくらいなら死んだほうがマシだ。
いつだって人のほうが跪いて擦り寄ってきた。自分から誰かに頼み込んだことなんてない。
引き受けないならそれでいい。帝都にだって弁護士はいる。帝都にいなけりゃ世界中にいる。
「氷室様。引き受けないなら引き受けないでいい。もう付き合いも長いし、今日の無礼の詫びとして――氷室様、言い値を出して。払うから」
悠の目が、わずかに暗く深くなる。いかにも篠らしい。金で殴る。
「本当に、それでいいのか。不二さん」
「金があれば、いい弁護士くらい雇えるでしょ」
「そうか?」悠は意味深に笑う。
「そうよ。死んでもあなたには頼まない」
悠は唇の端を持ち上げ、邪悪な笑みを目尻まで滲ませた。ポケットからハンカチを出し、首元のコーヒーの跡を無造作に拭う。その余裕が癪に障る。
「じゃあ、出ていってもらおうか」
篠は唇を尖らせた。タダで追い出してくれるなら、それに越したことはない。
ドアに手をかけて出ようとした、その瞬間。
悠の秘書がノックしようとして、篠を見てぎょっとした。
「氷室様。外に不二直樹という方がいらしてます」
不二直樹――。
腹の底まで計算でできてる、あの兄。
くそっ。
もし悠が直樹の代理についたら? 相続の争いになったら、こっちは勝ち目がない。
この先、母と一緒に路頭に迷うことになるかもしれない。
和也っていうあのクズが、妻子の手を引いて目の前を通り過ぎる時に、笑いながら見下してくるかもしれない。
悠はオフィスのクローゼットの前で、汚れたシャツを脱ぎ、新しい服に着替えようとしていた。
「会わない。追い返して」篠は秘書の前に立ち塞がり、噛みつくように言う。
秘書は呆気に取られ、悠に視線を向けて確認しようとした――が、振り返りざま、シャツのボタンを留めている悠の姿が目に入る。
秘書「…………?」昼間っから何してるんだ、この空気。
「なに?」篠が凶悪に言う。
「氷室様のご指示がまだで……」秘書が気まずそうに言い淀む。
「奥様の言葉は、言葉じゃないの?」
秘書「…………は、はい!!」
篠はそう言い捨てると、バタンとドアを閉めた。
振り返ると、悠がクローゼットの前でこちらを見ていた。袖口のカフスを留めながら、嘲るような笑みを浮かべている。
「……帰らないのか?」
