第3章
篠は、頬を張られるような現実があまりにも唐突すぎたと内心で毒づきながら、悔しさを押し殺した顔で悠を見上げた。
「もう、死にたいです」
それでも、悠には依頼しなければならない。
もし直樹に相続分の大半を持っていかれたら、死んでも武治を包丁で刺しに行く。それくらいの気持ちだった。
悠の胸が小さく震える。笑いをこらえているようにも見えた。
やがて、いかにももっともらしく頷く。
「不二さんが死ぬのがお好きなら、道具くらいは用意して差し上げますよ」
「ただ――」
男はそこで言葉の向きを変えた。
「不二さんは、いつから私の奥様になったんです?」
「さっきからです」
篠は意地でそう言った。
「ふっ————」
男は冷たく笑った。
「これから会議なんですが、不二さん……」
言い切らないその口ぶりに、察して引けという意図がありありと滲んでいた。
「氷室弁護士のお邪魔はしません。これ、私の番号です。気が変わったら、お電話ください」
そう言い残し、篠はその場を後にした。
三十分後。
会議室に入った悠は、皆がコーヒーを配っているところに出くわした。
若いアシスタントが配りながら、ついでに盛大に宣伝している。
「社長夫人からの差し入れのコーヒーでーす!」
「うちの氷室様の彼女、芸能界の篠さんなんですよ!」
……。
「和也、どこ行ったの?」
「アメリカ」
「住所ちょうだい。あたし、絶対乗り込んで去勢してやる」
浮気して、父親を倒れさせて、そのうえ逃げた?
そんなもの、到底飲み込めるはずがない。
小川梨乃はじろりと篠を睨んだ。
「今あんたが一番にやるべきことは、お父さんの遺産を確保すること。和也に構ってる場合じゃないでしょ」
「遺産を取り損ねたところに、和也が金持って戻ってきて、あんたの面を札束で叩いたらどうすんの?」
篠は絶句した。
……腹が立つ。ものすごく腹が立つ。
「何考えてんのよ。さっきから黙り込んで」
「お酒飲みたい」
篠は深々とため息をついた。
梨乃は呆れたように目を剥く。
「いいわよ、飲めば? で、また酔っ払って、悠のベッドに潜り込むんでしょ」
篠はしばらく黙り込み、やがて肩を落とした。
「……やめとく。家でお茶飲む」
「勝手にしなさいよ」
梨乃は白い目を向けた。
別荘に戻り、篠がシャワーを浴び終えて出てきたところで、奈央から電話が入った。
「話はどうだった?」
「別に。いつも通りって感じ」
篠は気の抜けた声で答える。
「なに、もう白旗? 直樹が今、お父さんのそばにほぼ四六時中張りついてるの知ってる? 勝てとは言わないけど、現実見て手は打ちなさいよ。今日、直樹も悠に会いに行ったって聞いたけど?」
「悠がどれだけ手ごわいか、あんた知らないでしょ」
「なら、正面から攻めるとか、色仕掛けするとか。できないなら勉強しなさいよ」
篠は呆れた。
「小説の読みすぎ。いい歳して、そんなので遺産が取れると思う?」
奈央は一瞬黙った。
「……それもそうね。現実味ないか。じゃあ今夜こっち来て付き添いなさいよ。お父さんが目を覚ました時、最初にあんたの顔を見たら、情が動いて口頭で遺言くらい残すかもしれないし」
篠は少し考えた。
死にかけの人間の枕元を見張るくらいなら、生きてる男を落としに行ったほうがまだましだ。
「悠を落としに行く。今すぐ」
篠はSNSをざっと一巡りした。
暇を持て余した名門の御曹司連中というのは、こういう時だけ妙に情報が早い。
四十分後。
帽子を深くかぶった篠は、帝都でも屈指の高級ゴルフ場に姿を現した。
コースの脇では、黒崎悟が立ったまま、悠のスイングを眺めている。
一打、また一打。
下半身は岩のように安定し、軌道にまるで狂いがない。
「帝都じゅうで噂だぞ。お前、篠とできてるって」
悠は姿勢を整え、ボールを見据えたまま言う。
「できてる、とは?」
「やることやってるって意味だよ。言わせんな」
悟は子どもの頃から悠と一緒に育ってきた。
悠みたいな、胸の内を滅多に表に出さない男が、何を考えているかなど昔から読みにくい。
黙ったままの悠を見て、悟は舌打ちまじりに言った。
「よりによって篠かよ。後で痛い目見るぞ」
「あの女、自分に才覚があるのをいいことに、妙に気位が高いし」
悠は動じない。
クラブを振り抜き、ボールをきれいに沈めた。
「男として、女に才能があると認めることは、別に恥じゃないでしょう」
篠が優秀なのは、昔から誰もが知っていた。
成績優秀。容姿端麗。頭の回転も速い。人当たりもいい。
何でもそつなくこなし、二言三言で揉め事すら収めてしまう。
父親譲りの柔らかさも持っていた。
「それはそうだけど、その才覚をまともなことに使えばな――」
「昔の偉い人が言ってたわよ。陰で人の悪口言う男は、腐るんだって」
ふいに背後から声が飛んだ。
悟が振り向くと、篠がキャップをかぶったまま立っていた。
腕を組み、いかにも面白がっているような顔だ。
「それ、ほんとに偉い人か?」
「信じないなら、あの世で本人に聞いてみたら?」
篠は軽く言い返し、そのまま悟を押しのけて悠のほうへ歩いていく。
「氷室様が、まさか私の長所に気づいてくださるなんて」
「ええ。あなたの長所は、うちのマルの長所と同じくらいわかりやすいですから」
淡々としたその返答に、悟はこらえきれず吹き出した。
「マルって、悠が飼ってる犬な」
篠は一瞬だけ無言になった。
……我慢。我慢よ。
彼女は帽子を外し、髪をかき上げる。
「氷室様って、ほんと口が立つのね。下よりずっと」
「うおっ」
悟が素っ頓狂な声を上げた。
悠も、さすがに一拍置いた。
笑っている。
驚いたのだ。聞き間違いかと思うくらいには。
芸能界の清純派として通っている女の口から、こんな下世話な台詞が飛び出すとは。
確かに、意外ではあった。
「不二さんは、お嫌いですか?」
「好きですよ」
篠はまた髪を指先で払った。
「でも氷室様。硬いのは結構ですけど、小さいのは困ります」
男は手にしていたクラブを放り、篠の腰を掴むと、そのまま壁へ押しつけた。
「今の、もう一度」
篠は首を小さく傾げ、何も知らないふうに目を瞬かせる。
「何をです?」
「篠……」
悠は歯を食いしばるように名を呼んだ。
「はい?」
骨のないみたいにしなやかな篠の手が、悠の腰に落ちる。
ゆっくりと撫で、シャツの裾をつまみ上げて中へ差し入れようとしたところで、その手首を悠が掴んだ。
男の抑え込んだような眼差しが、彼女の卵形の顔に落ちる。
呼吸が、定まらない。
篠はすっぴんでも十分すぎるほど綺麗だった。
飾り気のない顔立ちほど、かえって生まれつきの艶が際立つ。
伏せた目も、見上げる目も、それだけで人を誘う。
篠は空いたほうの手を伸ばし、彼の喉仏に触れた。
唇にうっすらと笑みを乗せる。
「氷室様、もう一回試してみます?」
悟は目を剥いた。
……なんだこれ。
これが、あの高慢で派手な孔雀みたいだった篠か?
どうしたらここまでべったり絡みつくんだ。
悠、何した?
どこの異世界から来たサキュバスだよ。
「俺、消えたほうがいい?」
空気の読めないその一言に、篠は不機嫌そうに舌打ちした。
「黒崎さん、その頭で今まで生きてこられたの、ちょっと奇跡ですね。黒崎家に余裕があるなら、もう一人作ったほうがいいですよ」
「てめぇ――」
悟が言い返すより早く、悠が一言だけ投げた。
「失せろ」
悟は口を閉じた。
……こいつら、揃って頭おかしいんじゃないか。
男の手が篠の腰に食い込む。
力が強すぎて、そのまま握り潰されそうだった。
「こんなことをしたくらいで、私があなたの訴訟を引き受けるとでも?」
「私だって、できる限り頑張ってるんです。氷室弁護士がこういうのがお嫌いなら、別のやり方に変えますけど?」
「別のやり方?」
悠は低く問う。
「たとえば、ストリップでも見せてくれるんですか。不二さん」
