第5章

翌朝、篠はまだまどろみの中にいた。

そこへ、梨乃から電話がかかってくる。

「起きた?」

「半分寝てる」

「でしたら、お手数ですけどトレンドをご覧になってくださいな」

嫌味たっぷりの声音だった。

「どういう意味?」

篠はゆっくりと身を起こす。シルクのネグリジェが肩からするりと落ち、うぶ毛すら見えないほど白い肩がのぞいた。

「トレンド入りしてるの。さっさと起きて片づけなさいよ」

『驚愕! 篠、二股発覚』

一枚は悠と一緒にいる写真。もう一枚は悟と並んでいる写真。

なるほど、昨日会った男はたった二人。その二人を、メディアは寸分違わず押さえていたわけだ。

もう男と会うこと自体が危険すぎる。

芸能記者ども、本当に嗅ぎつけるのがうまい。

コメント欄を開く間もなく、今度は奈央から電話が入った。

「お父さんが今にも死にそうだってのに、金の心配もしないで男遊び? しかも一人じゃなくて二人?」

「あなたが色仕掛けしろって言ったんじゃないの?」

篠の声は落ち着き払っていた。世界中が慌てていても、彼女一人だけが慌てない。

「加減しなさいよ。相続権を取る前に、先にマスコミに潰されるわよ」

不二家ほどの家となれば、目を光らせている連中はいくらでもいる。奈央が先回りして、こういう日が来るのを見越し、早々にプロの経営陣を会社へ入れておいたのは不幸中の幸いだった。でなければ今日、会社は確実に立ち往生していた。

篠が堅実で真面目な娘ならまだよかった。なのに彼女は芸能界にいて、何かあるたびにトレンドに上がる。

「安心して」

スマホを片手にクローゼットの前へ歩き、篠は白いワンピースを一着取り出して体に当てた。

「奈央、ひとつ聞くけど。父の件が決着したら、あなたが真っ先にやることって何?」

「本音と建前、どっちが聞きたいの?」

「くだらない前置きはいらない」

「実父の金で、あんたに継父を見つけてあげること」

奈央は一瞬も考えずに言い切った。まるで、それがずっと人生の目標だったみたいに。

武治が死ねば、その願いは叶う。

「じゃあ、その実父の金で私に継父をあてがうためにも、ひとつ手伝って」

「言って」

……。

直樹は帝都で物流会社を経営している。国内外の物流を扱い、あの老いぼれの子どもたちの中では、間違いなく頭の回る部類だった。

だからこそ、篠はなおさら彼を潰したいと思っていた。

帝都の物流パークで、篠は白いワンピースをまとい、長い髪を下ろしていた。まるで恋愛ドラマに出てくる清楚系の当て馬だ。見るからにか弱く、少しも攻撃性がない。

「俺に何の用だ?」

篠は細い指先で髪をくるくるともてあそびながら言う。

「直樹と取引がしたいの」

「取引?」

直樹の中での篠の評価は、ただの花瓶だった。それも家の金を使うことしかできない、見た目だけの花瓶。

篠はふっと微笑む。

「おじさまの外の子、十二人。その件での取引よ」

直樹の手が、茶碗を持ったままぴたりと止まった。ソファにもたれ、値踏みするように篠を見る。

篠は母親似だ。美しく、清純にも艶やかにも見える顔立ち。幼い頃から甘やかされて育ったせいか、生まれつきの傲慢さが骨の髄まで染みついている。

全身から漂うのは、絵に描いたようなお姫様気質。

人を見下ろすその空気は、目の前のすべてが塵芥にすぎないと思っているようですらあった。

直樹が迷っているのを見て、篠は確信する。こいつも一度は考えたことがある、と。

「悠は、あなたがそう考えてるって知ってるの?」

「それ、重要か?」

篠が無造作に問い返すと、直樹は鼻で笑った。

「重要だろ。おまえの軍師が悠じゃないなら、手を組む話は慎重に考えなきゃならない」

篠は黙った。

……こいつ、完全に私を見くびってる。

このクズ。

篠の顔色が変わったのを見て、直樹は肩をすくめる。

「率直に言ってるだけだ。あの老いぼれ、若い頃に好き勝手やってたからな。一人二人の隠し子なら大した問題じゃない。でかいパイを一口かじられる程度なら、別に構わない。けど……十数人となると話は別だ。一人一口やられたら、俺たちの取り分なんて残るのか? 篠、協力したいなら誠意を見せろよ。おまえは芸能界の人間だ。表立って動くには不都合が多すぎる。最後に汚れ仕事を片づけるのは、どうせ俺だ」

篠はあっさりと頷いた。

「それもそうね」

「だろ?」

「じゃあ、誠意を見せる」

直樹が顎を上げる。

「聞こうか」

「もう病院で夜通し張りつくのはやめたほうがいいわ。話がまとまるまでは、誰にも武治とは会わせない」

「……どういう意味だ?」

「言葉通りの意味よ。あとは自分で考えて」

母は今も、あの老いぼれの正式な妻だ。意識のない人間を移すくらい、難しいことじゃない。

誠意がほしいと言うなら――これが誠意。

武治に会えないまま、みんな焦ればいい。

……。

「法律事務所へ」

車に乗り込むなり、篠はスカートの裾を整え始めた。

助手席のアシスタントが振り返る。

「お姉さん、最近ずっとマスコミに張られてるんですよ? 日にちを改めたほうが――」

「芸能界なんて、別に捨ててもいいの。でも氷室弁護士だけは、絶対に手に入れる。出して」

芸能界で稼げる金など、彼女にはどうでもよかった。

武治の遺産こそが人生の本命だ。

あの金さえ手に入れば、芸能界だろうが何だろうが、好き放題にのし歩ける。

午後四時。

悠が裁判所から戻り、事務所の扉を開けた瞬間、椅子に座る真っ白な人影が目に入った。あまりに唐突で、彼は数秒思考を止める。

「……親父さん、死んだのか?」

篠は無言になった。

「死んでもないのに、葬式帰りみたいな格好してるのか?」

「氷室弁護士って、そんなに稼いでるのに眼科には行かないのね」

悠は鼻で笑い、上着を脱いで無造作にソファへ放る。

「ここに住みつく気か?」

「それで私の弁護を引き受けてくれるなら、喜んで」

篠は昔から、少し頭のねじが外れていた。

まともな人間と比べるなら、羞恥心だけきれいに欠けている。欲しいものがあれば、何としてでも手に入れる。手に入れたあと大事にするかどうかは、相手には関係のない話だ。

悟の言葉を借りるなら、これは因果応報らしい。あの篠にも、人に頭を下げる日が来たということだ。

その悟が今日、悠に言っていた。

篠は一見いかれているようで、実のところ相当やる女だ、と。

昨夜は隠し子たちに追い回されていたのに、今日はもう父親が極秘に移送されている。

以前に親子鑑定を済ませていた者は先祖に感謝すべきだろう。やっていない連中には、もうその機会はない。

親子関係を証明できなければ、遺産相続などできるはずもない。

篠はやはり篠だった。

外では狂ったふりをしていても、腹の中では算盤を一桁も間違えない。

篠は悠の万年筆を指先で転がしながら、彼が袖を少しずつまくり上げ、引き締まった腕をあらわにしていくのを眺めていた。

「後悔してる」

悠は気のない調子で応じる。

「何をだ?」

「一昨日の夜、酔いすぎてて、あなたの体をちゃんと堪能できなかったこと。まだチャンスはある?」

悠は黙り込み、それから呆れたように言った。

「篠、今どき美容医療も発達してるんだ。おまえ、自分の面の皮を少し薄くしてもらう気はないのか?」

篠がふんと鼻を鳴らしたところで、電話が鳴った。相手が何を言ったのかは聞こえない。ただ、篠がこう返すのだけは悠の耳に入った。

「今忙しいの。そんなのに構ってる暇はないわ。弁護士の番号を教えるから、メモして――」

悠は、自分の椅子を当然のように占拠し、自分の名刺を手にして番号を読み上げる篠を見て、思わず笑ってしまう。

「いつ俺がおまえの弁護士になった?」

篠は頬杖をつき、可憐ぶった顔で悠を見上げるだけで、答えない。

そのとき悠のスマホが鳴り、彼は取り上げるように通話に出た。

「俺はあいつの弁護士じゃない」

『いいから。今は違っても、そのうちそうなる。篠に目をつけられて逃げ切れた男がいるか? 諦めろ』

相手は悠の知人らしく、篠の悪名もよく知っていた。

篠に狙われた男で、無事に逃げおおせた者などいない。

『黒幕は不二瑞代。身柄はこっちで警察に回してある。すぐ来い』

「行きましょ」

篠は悠が通話を切るのを待ち、スカートの裾を撫でながら立ち上がった。どうせこの男は口が悪いだけで、最後には放っておけない――そんな顔をしている。

白いシフォンの裾の下、むき出しの太腿が眩しい。

悠はわずかに目を閉じた。

脳裏によみがえるのは、一昨日の夜、篠が彼の腰に腕を絡めてきた退廃的な光景。それから、熱を含んだ甘い息づかい。

「篠――おまえ、脚をへし折られたら、もう俺につきまとえなくなると思うか?」

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