第2章

「泰人!」

 最後の藁にもすがる思いで、私は渾身の力を振り絞って華恵美の手を振り払った。地を這うようにして、兄の元へと飛びつく。

「泰人! 助けて! この人たち、狂ってる! また私の子を殺そうとしてるの!」

 エレベーターから降りた泰人は、私を背後に庇うように立った。

 引き裂かれた私のブラウスや、足首に広がる大きな痣を見て、兄の顔は一瞬にして険しくなった。

「史司! 華恵美! これは一体どういうことだ?!」

「百花は株田家に嫁いだんだ。奴隷として拷問を受けるために来たんじゃない!」

「今日、この子の髪の毛一本でも傷つけてみろ。すぐに警察を呼んで、上流社会の連中にあんたたちの醜態を晒してやる!」

 泰人の強硬な言葉を聞いて、私はついに助かったのだと思った。

 しかし、史司の顔には焦りの色など微塵もなく、罪悪感すらまったく浮かんでいなかった。

「泰人、ここで騒ぐな。中に入って話そう」

 史司は家に入るよう促した。

 泰人は眉をひそめたが、それでも私の腕を引いてリビングへと足を踏み入れた。

 部屋に入るなり、史司はまっすぐイーゼルのほうへと向かった。

 彼は躊躇うことなく黒い鳥が描かれたキャンバスを手に取り、泰人の目の前に突きつけた。

「これを見ろ。次人が彼女の腹を触って、これを描いたんだ」

 私は泰人の背中に隠れながら、ヒステリックに叫んだ。

「あんなのただの紙くずよ! 泰人! 私、羊水検査を受けたの。赤ちゃんは健康だったわ!」

 私は床に散らばった医学の検査報告書を拾い集め、兄の手に押し付けようとした。

 だが、泰人は受け取らなかった。

 彼の視線は、その黒い鳥の絵に釘付けになっていた。

 その直後、史司と泰人は視線を交わした。

 ほんの一秒。

 泰人の態度が、百八十度一変した。

 私を庇ってこわばっていた彼の肩から、ふっと力が抜けた。

 振り向いた彼の顔は、さきほどまでの怒りに満ちた表情から一転し、よどんだ沼のように底暗かった。

「百花、もういい加減にしろ」

 ひどく静かなその声は、くぐもった雷鳴のように私の脳天を直撃した。

 私は呆然とした。自分の耳を疑った。

「泰人、何を言ってるの?」

 彼は苛立たしげに顔をしかめた。

「だから、その子供は堕ろせと言ってるんだ!」

 私は目の前の男を唖然と見つめた。

 私の、たったひとりの兄を。

「狂ってるの?!」

 私は金切り声を上げた。

「あなたの甥っ子なのよ! 科学的な報告書より、盲目の人が描いた絵を信じるっていうの?! 今の時代に、そんな馬鹿な! あんたたち、人殺しよ!」

 取り乱す私を前にしても、泰人は微塵も心を動かさなかった。

 それどころか、私が彼の顔に泥を塗ったとでも言いたげだった。

「いい加減にしろ、百花! 少しは状況をわきまえろ!」

 泰人は私の鼻先に指を突きつけ、激しい口調で罵った。

「お前は化け物を産み落として、両家の名に泥を塗るつもりか?!」

 その瞬間、私は氷の穴に突き落とされたような感覚に陥った。

 ようやく理解した。

 こいつらは、みなグルなのだ。

 金と迷信の空気がこびりついたこの豪邸の中で、私はいつでも切り捨てられる、ただの出産道具にすぎなかったのだ!

「悪魔! あんたたち、みんな悪魔よ!」

 絶望の底から呻くように叫び、私は身を翻して玄関へと駆け出した。

 逃げ出せさえすれば。

 大通りに出て、誰かに会いさえすれば、助かる!

 だが、二歩も進まないうちに。

 頭皮に走った激痛!

 泰人が背後から、私の髪を思い切り掴み引いたのだ!

「ああっ——」

 あまりの痛みに悲鳴を上げ、私の体はコントロールを失って後ろへと仰け反った。

 乾いた平手打ちの音が響き、私の頬に強烈な痛みが走った。

 たちまち口の端から、鉄錆のような血の味が滲み出してくる。

 私を殴ったのは、他の誰でもない。私の実の兄だ!

「どこへ逃げるつもりだ! 戻れ!」

 泰人は私の腕を強く締め上げると、再びリビングの中央へと引きずり戻した。

 史司と華恵美が、すかさず私を取り囲む。

「痛い目を見ないと分からない、卑しい女ね」

 華恵美が冷ややかに鼻で笑った。

 史司はどこからともなく、太いカーテンのタッセルを取り出した。

 彼ら三人は、まるで野獣をねじ伏せるかのように、私をソファへと力ずくで押さえつけた。

「離して! 助けて! 殺される!」

 必死に両足をバタつかせ、喉が枯れるほど叫んだ。

 しかし、この広大な屋敷の中で、いつも様子を窺っているような使用人たちは誰一人として姿を見せなかった。

 私を助けに来る者など、誰もいないのだ。

「クリニックに行かないと言うなら、家で済ませるまでだ」

 史司は冷淡に手を叩いた。

 華恵美は身を翻し、キッチンへ向かった。

 三十秒も経たないうちに、彼女は大きなボウルを両手で抱えて戻ってきた。その中には、赤褐色の液体がなみなみと注がれていた。

 鼻を突く、吐き気を催すほど苦い薬の匂いが、瞬く間にリビング全体に充満する。

 それは、命を奪うのに十分な堕胎薬だった!

「や、やめて!」

 私は抵抗を諦め、その場にいる全員に哀願し始めた。

「お義母様! お願いします!」

 彼女を見つめながら、私は堰を切ったように涙を流した。

「航平に嫁いで三年、尽くしてきた私の顔に免じて、この子だけは見逃してください!」

 華恵美は全くの無表情だった。

「お義父様!」

 私は首を巡らせた。

「誓います! この子を産んだら、私が連れて出て行きます! ずっと遠くへ行きますから! あなたたちの家の財産なんて、一銭もいりません!」

 史司は冷たく鼻を鳴らし、そっぽを向いた。

 最後に、私は兄を見た。

「泰人、私はあなたの妹でしょう! もう一度子供を失ったら、私、死んでしまう! 本当に死んでしまうわ! お願い、助けて!」

 身を引き裂かれるように泣き叫ぶ私を前に、彼の視線がようやく、極めて不自然に泳いだ。

 しかし、彼は歩み寄ろうとはしなかった。

 ただ忌々しげに背を向け、フランス窓の外に目をやっただけだった。

「百花、長引く苦痛より、一時の痛みだ。これはお前のためなんだ」

 私のため。

 私は絶望の淵に沈んだ。

 華恵美が私の目の前に立ち、私の顎を強引に掴む。

「さあ、飲みなさい。一眠りすれば、すべて終わるから」

 薬の汁が私の喉に流し込まれようとした、その時。

 玄関のドアが、凄まじい力で乱暴に蹴り開けられた!

「全員、やめろ!!!」

 私はどうにか重い瞼をこじ開けた。

 航平だった。

 ついに、彼が駆けつけてくれたのだ。

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