第1章
私の卒業制作展に来るはずだった、婚約者と家族が乗った豪華客船で火災が起きた。
あの日から三年。私は何度も睡眠薬を飲み込み、彼らのあとを追おうとした。
そのたびに、義妹の真紀子が泣きながら私の喉に指を突っ込んで吐かせ、命をつなぎとめた。
「みんないなくなっちゃったの! 瑞季、いつまでも過去にしがみついちゃだめ。あなたは、みんなの分まで生きなきゃ」
そして、また高熱で倒れて搬送された病院で、私は末期の白血病だと告げられた。
医師は言った。残された時間は、せいぜい三十日。
骨髄の適合検査を勧められても首を振り、家族の遺品を抱えて、郊外の実家をひと目だけ見に行こうと思った。
ふらふらとした意識の隙を縫って、走り回っていた男の子が、どんっと私の脚にぶつかった。
その背後から、魂を縛りつけてきた声が飛んでくる。
「翔一、また走り回ったら、パパとママに嫌われちゃうぞ?」
瞬間、全身の血が凍った。足の裏から冷えが這い上がり、その場に縫い付けられる。
信じられずに振り返って――私は見た。
あの海難で死んだはずの悠人を。
悠人は男の子の額の汗をやさしく拭い、もう片方の手で、真紀子の手を指を絡めて握っていた。
視線が合った瞬間、彼の笑みがぴたりと固まる。
真紀子は血の気を失い、感電したみたいに悠人の手を振り払った。
「瑞季、違うの。見たまんまじゃなくて……お願い、話を――」
言い終えるより先に、男の子が悠人の太ももにぎゅっとしがみつき、私を指さして幼い声で尋ねた。
「パパ、このおんなのひと、だれ?」
空気が、死んだみたいに止まった。
私は呆然と三人を見つめ、頭の中がぶうん、と鳴ったまま動かない。
片膝をついて「一生、小さなお姫様みたいに大事にする」と言った婚約者。
母の親友の遺児で、幼いころから本当の妹みたいに可愛がってきた子。
わからない。
悠人が奇跡的に生きていたことに歓喜すればいいのか。それとも、この裏切りに息もできないほど苦しめばいいのか。
私が震えて言葉も出せないのを見ると、悠人は一度、深く息を吸い、表情を平らに整えた。
「見られたなら、もう演じる必要もない」
「当時の火災は偽装だ。真紀子を連れて海外に出た。こいつは俺たちの息子だ」
脚から力が抜け、隣のベンチに手をついて、ようやく立っていられた。
「……どうして」
悠人は眉をひそめ、面倒なものを見る目で私を見た。口調には、当然だと言わんばかりの色が混じる。
「真紀子は昔から俺に依存してた。お前、本当に気づかなかったのか?」
「大学のとき、お前に渡したネックレス。あれ、本当は真紀子に買ったんだ。お前が間違って持っていっただけで……恥をかかせたくなくて、そのままにした」
「本当はどこかで話すつもりだった。でも真紀子が優しすぎて、お前が耐えられないって言うから……こういう形で離れるよう頼まれた」
心臓が、ミンチにされるみたいに軋んだ。私は乾いた笑いを漏らす。喉が裂けそうにかすれている。
「じゃあ、いっそ……死ぬまで騙し通せばよかったじゃない」
悠人は苛立ちを隠さず、短く息を吐いた。
「冷静に見れば、お前は結婚相手としては合格だった。俺も、愛そうとはした」
「でも、婚約の日……真紀子が屋上に一晩中立っててな。そこでわかった。俺はあいつを失えない」
「こうなった以上、きれいに別れよう」
軽い数言で、私の三年間の想いは踏みつけられて粉々になった。
私はその場に立ち尽くし、氷の底へ沈む。
三年前の海難のあと、私は重度のうつを患った。
夜通し、彼らの肖像を描き続けた。手首の腱が炎症を起こすまで。腕には、自傷で押し当てた煙草の火傷跡がいくつも残った。
悲しみで擦り切れ、身体も限界まで削って、若くして白血病になった。
それなのに彼は言う。全部、愛のために駆け落ちする芝居だった、と。
私は――ただの笑いものだったのか。
花房の裏手にある古い家の扉を、幽霊みたいな手つきで押し開ける。
埃にまみれているはずの居間から、聞き慣れた笑い声が弾んでいた。
私が自分の手で墓標まで立てた父と母が、慈しむ顔で翔一にみかんをむいている。
兄の謙介は、ピアノを弾くその手で、男の子と一緒にレゴを組み立てていた。
家族の団らん――そこに、玄関に立つ私の気配が落ちた瞬間、空気がわずかに揺れた。
母の顔に一瞬、後ろめたさが走り、私と目を合わせない。
「三年前のことはね……さすがに、ちょっとやりすぎだったと思うの」
「この数年の瑞季が、もう人間みたいじゃなくて……母親としても胸が痛かった」
父が鼻で笑い、母の言葉を切り捨てる。
「物で補ってやればいい。何を今さら罪悪感だ」
謙介は目尻を赤くしながら、真紀子の手を厳かに悠人の掌へ渡した。
「真紀子の両親は、母さんを助けようとして事故で亡くなった。あいつはひとりぼっちだったんだ」
「俺は昔から実の妹みたいに可愛がってきた。あいつを叶えるために、実の妹にまで黙ってた」
「悠人。真紀子を泣かせたら、俺が真っ先に許さない」
悠人は優しく真紀子を抱き寄せ、私の家族の前で誓った。
「謙介、父さん母さん、安心してくれ。俺は命を懸けて真紀子を愛する」
祝福の声に包まれながら、悠人は取り出した。
本来なら私の指にはまるはずだった、特注の婚約指輪。
それを真紀子の薬指に通す。
私は唇を噛みしめた。血の味がしても、歯をほどけなかった。涙だけが、ぼたぼたと落ちる。
不治の病だと宣告された日でさえ、こんな筋が引きちぎられるような絶望は知らなかった。
最初から、家族全員が真紀子に合わせていたのだ。盛大な「偽りの死」で、私を家族から切り離すために。
――私は、生まれつき、愛される資格のない余りものだった。
