第2章
玄関の外で立ち尽くし、両脚の感覚がなくなるまで――。悠人が真紀子を連れて二階へ休みに上がろうとした、そのタイミングでようやく、痺れた身体を引きずるようにしてリビングへ入った。
家族全員の、目をそらす視線が突き刺さる。
沈黙を破ったのは母だった。苛立ちを必死に塗り隠した声で言う。
「……本当はね、あのとき私たち、助け上げられたのよ。ただ国外で療養してて、あなたに連絡できなかったの」
私は空っぽの目で母を一瞥しただけで、何も言わなかった。
父は、私が騒がないのを見ると咳払いをする。
「もう知ってしまったなら、はっきり言う。悠人と真紀子は、子どもまでいる。お前も大人なんだから、器を大きく持て」
私は相変わらず、人形みたいに突っ立っていた。
その様子に苛立ったのか、謙介が手にしていたレゴを床へ叩きつけた。ぎり、と眉間に皺が寄る。
「瑞季、その死人みたいなツラ、誰に見せてんだよ。真紀子の親がいなかったら、死んでたのはうちの母さんだろ!」
「うちは真紀子に借りがあるんだよ! だからお前、しつこく悠人にまとわりつくな!」
「男が欲しいなら、そのうち謙介が金で十人でも八人でも連れてきてやる!」
彼の目に浮かぶ露骨な嫌悪を見て、私はただ、滑稽で仕方がなかった。
家の恩義を返すのに、どうして私の命と人生を差し出さなきゃいけない。
そのうち、って――
私はもう、三十日だって生きられないのに。どこに「そのうち」があるんだ。
黙り込む私を、謙介は「折れた」と勘違いしたのだろう。さらに図に乗る。
「悠人たち、帰国したばっかだろ。ホテル暮らしは翔一の身体に良くない」
「これからは、あいつら家族三人、ここに住むからな」
バッグの中の白血病の診断書が脳裏をよぎった。唇がわずかに動く。けれど、言い返す言葉は全部、喉の奥へ飲み込んだ。
「……好きにすれば」
どうせ私は、死にかけの人間だ。この家の何もかも、もうどうでもいい。
その日の午後、真紀子たち家族三人は旧宅に荷物を運び込んだ。
謙介はあれこれ世話を焼き、翔一に広いおもちゃ部屋を用意するためだと言って、私のアトリエを勝手に空っぽにした。
翔一の足元で踏みつけられているのは、銀の長命錠だった。
涙が、音もなく溢れる。
真紀子の背中に隠れた翔一が、ひょこっと顔を出して、泣きそうな声で言う。
「ぼく、あなたのもの、こわしちゃった? たたかないで、お願い……」
近づこうとした瞬間、謙介に乱暴に押しのけられた。
「ただのボロい飾りだろ。そんな鬼みたいな顔して、誰を脅してんだよ」
「翔一はまだ三歳だぞ。いい大人が子どもに手ぇ出すつもりか?」
謙介は翔一を抱き上げて立ち去った。まるで覚えていない。あの長命錠が、私の十八の成人祝いに、父と母と謙介が、山まで行って膝をついて祈り求めたものだということを。
あの人たちが「死んだ」あとも、私が家族の温度を感じられる唯一の縁だと信じていたのに。
今は踏みつけられ、ねじ曲がっている。
私は床に落ちたそれを見つめ、涙をこぼした。
私が動くより先に、謙介が冷えた顔で、歪んだ銀片をつま先で蹴り飛ばした。
「こんな汚いもん、捨てりゃいいだろ」
そして私を振り返り、使用人に命じるみたいな口ぶりで言う。
「そうだ。前にお前、悠人の結婚式用にスーツ一式、徹夜で作ってたよな。出せよ」
私は勢いよく顔を上げた。信じられない。何晩も潰して、指に針穴を作りながら縫い上げたものだ。
「……私の、血と時間よ。どうしてあの人のために……嫁入り道具にしなきゃいけないの!」
悠人が苛立たしげに遮る。言葉は容赦なく尖っていた。
「瑞季、いい加減にしろ。真紀子が着てやるってのは、お前に情けをかけてるんだよ。式すら挙げる資格のない女が、そんなもん抱えて何になる? 目障りだろ」
「取りに行け!」謙介が歩み寄り、乱暴に私の襟元を掴んだ。
「俺に手を出させるな! 真紀子が欲しいものは、お前が渡すって決まってんだ。渡さないなら――渡させる」
歯を食いしばり、震える身体のまま、私は腰を折って銀片に手を伸ばした。
その瞬間、鼻の奥に濃い鉄の匂いが込み上げた。胃がひくりと痙攣し、吐き気が襲う。
ぽた、ぽた、と。
暗赤色の鼻血が、フローリングに落ちていく。
真紀子はそれを見て、わざとらしく息を呑んで近寄った――が、足元の陶器の破片を踏み、甲高い悲鳴を上げた。
「きゃっ……痛い……!」
物音を聞きつけて悠人が駆けてくる。真紀子の足首に滲む血を見た瞬間、目つきが暗く沈み、私を強く突き飛ばした。
「瑞季、俺が悪かったのは認める。けど、だからって真紀子に当たるのは違うだろ。弱い者いじめして楽しいか?」
悠人は真紀子を横抱きにし、ソファへ運ぶ。
声を聞いた両親も駆けつけ、私を指さして罵り始めた。
「やっぱりね! そう簡単に飲み込めるはずないと思ったわ。こんなところで腹黒いこと企んでたのね!」
「三年前のことは私たちが悪かった。でも真紀子は昔から身体が弱いのよ。よくもそんな酷いことができるわね!」
「あなたが鬱で、タバコの火を自分に押しつけてたときだって、真紀子は一晩中つきっきりで見てたのよ! 恩を仇で返す、情の通じない子!」
真紀子の周りに家族が群がる。誰一人、振り返らない。
私は口と鼻を押さえた指の隙間から、血が止めどなく溢れていくのを見つめていた。
氷の牢に閉じ込められたみたいだった。全身の血が、逆流していく。
――この家に、私の居場所なんて最初からなかったんだ。
私はふらつく身体を引きずり、残っていた数着の服をスーツケースへ詰め込んだ。出ていくつもりだった。
ドアノブに手をかけ、扉を開けた瞬間。
悠人と謙介が冷たい顔で、廊下を塞いで立っていた。
「……また何の癇癪だよ。どこ行く気だ?」
