第3章

 私は無表情のまま彼らを見つめた。もう一言だって、余計なことは言いたくない。

 悠人が私のスーツケースの取っ手をぐいとつかみ、低い声で言い放つ。

「みんなやっと集まったってのに、このタイミングで家出して空気ぶち壊す気か?」

 謙介はさらに乱暴だった。私の箱を部屋のほうへ蹴り込む。

「さっき言い方がきつかったのは認める。でもお前こそ、自分が何したか分かってんのかよ!」

「同じ長命鎖くらい、また買ってやる! もう終わった話だ。ここで駄々こねるな!」

 両親も二階へ上がってきて、眉をひそめながらこの光景を見下ろした。

 もみ合ううちに、スーツケースのファスナーがぶちっと弾けた。折りたたまれた診断書が、ひらりと床へ舞い落ちる。

 反射的に拾おうとした瞬間、真紀子が先に足で踏みつけ、そのまま拾い上げた。

 彼女は一瞥しただけで、そこに書かれた「急性白血病 末期」という文字を見て、目元が一気に赤くなる。

「瑞季……病気なの? どうして言ってくれなかったの?」

 両親と謙介が固まった。次の瞬間、顔色がみるみる険悪に染まっていく。

「瑞季、こんな冗談はやめなさい」

「昨日まで元気に動き回ってたじゃないか。いきなり不治の病だなんてあるわけない」

 私が口を開く前に、真紀子の涙がぽたぽたと落ちた。

「瑞季、全部……全部私が悪い。悠人を取り合うみたいになったのも、私のせい。でも、どれだけ私を憎んでも、病歴を捏造して自分に死の呪いをかけるなんて……!」

「不治の病を持ち出して、お父さんとお母さんの胸をえぐって……どれだけ苦しいか分かってるの?」

 一瞬で、皆の視線が驚きから怒りと軽蔑へ変わった。

 痛みで冷や汗が噴き出し、息も途切れ途切れになる。それでも私はかすれた声で言った。

「……捏造なんか、してない……」

 言い終える前に、悠人が乱暴に私を突き飛ばした。背中が門框にぶつかり、鈍い衝撃が走る。

「瑞季、三年ぶりに会ったらこれかよ。どこまで腹黒くなれば気が済むんだ? 不治の病を装って同情買うなんて、最低のやり口まで使うのか」

「昔、うつの発作で真紀子が車にひかれかけたときだって、俺たちがお前を責めたか? 死ぬ死ぬって脅して、俺たちを縛りつける気かよ!」

「言っとく! たとえお前が今ここで本当に死んだとしても、俺は絶対に気持ちは変わらない! 真紀子こそ、俺の正真正銘の妻だ!」

 謙介は目を真っ赤にし、反動のように乾いた音の平手打ちを私の頬に叩きつけた。

「俺たちが騙したからって、わざと死をちらつかせて気持ち悪がらせてんのか?」

「うちに、そんな性根の腐った娘がいるなんて……!」

「真紀子に謝れ!」

 殴られた耳がきんきん鳴った。私は力なく床に崩れ落ち——次の瞬間、喉の奥が熱くなり、血が一気に噴き出した。白い絨毯に、赤が飛び散る。

 空気がまた凍りつく。

 両親と謙介は一瞬だけ動揺し、思わず私を支えようとした。

 そのときだった。

 翔一が真紀子の背後からぴょこんと飛び出し、手をぱちぱち叩きながら、床の血を指さして笑った。

「わー! ママ見て! 動画のエフェクトとそっくり! このおばさん、口の中に血のパック隠してるんでしょ!」

 真紀子の表情に、ほんの一瞬だけ見逃しそうな得意げな色が走る。

 両親の顔色が完全に鉄青になった。父がそばにあった羽根箒をひったくり、私を指さして怒鳴りつける。

「瑞季! 子どもの前で手品みたいな真似をして人を騙すなんて! 恥を知れ!」

「今すぐ真紀子に土下座して謝るか! それが嫌なら、今すぐこの家から出て行け!」

 真紀子は弱々しく悠人の胸にもたれ、いかにも理解あるふうに口を開く。

「お父さん、お母さん……もういいの。瑞季は、私のことが憎くて仕方ないだけだから」

「悠人、私たち……翔一を連れて出て行こうか。最近、喘息ぎみで……またつらい思いをさせちゃうけど……」

 彼女は声を落としてすすり泣いた。

 悠人は苦しげに腕をきつく回し、真紀子を抱き締める。

「真紀子、泣くな。出て行くのはお前じゃない、あいつだ」

「俺がいる。誰にも、お前たち親子をいじめさせない」

 謙介の怒りはついに爆発した。私の襟首をつかみ、ぼろ布人形みたいに引きずり上げる。

「瑞季! 今日ここで目を覚まさせてやらなきゃ、これから先どれだけ真紀子を踏みにじるか分かったもんじゃない!」

 玄関先に立てかけてあったゴルフクラブを手に取り、容赦なく私の背中へ振り下ろす。

「病歴の捏造だ!」

「偽の血を吐いて騙すだ!」

「ここで跪け! 真紀子が許すまで、立つな!」

 金属が叩きつけられるたび、骨が砕けるような激痛が走った。

 視界がじわじわと血で滲んでいく。朦朧とする意識の中で、幼いころの記憶がよみがえった。

 私がうっかり古い壺を割ってしまったとき。父が鞭を持ち出して——謙介は私をかばって、その上に覆いかぶさった。

 背中が青黒く腫れても、歯を食いしばって離さなかった。あのときは、ずっと守るって言ってくれたのに。

 もう、戻れない。

 痛みが感覚を奪っていく。世界がすうっと遠のき、私は目の前が真っ暗になった。

 そして、そのまま——完全な闇へ沈んだ。

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