第4章

 目を開けた瞬間、視界いっぱいに病院の白く刺さる蛍光灯があった。

 全身の骨が、何万匹もの蟻に噛み砕かれているみたいで、痛みに震えが止まらない。

 看護師は血の滲んだシーツを替えながら、小さくため息をついた。

 医師が検査結果の紙を手に病室へ入ってくる。眼差しには深い憐れみが滲んでいた。

「数値が……全体的に崩壊しています。治療を続ければ、もともとはあと一か月はもつはずだったんですが、今は……」

 彼は首を振り、それ以上は言わなかった。

 看護師が見ていられない、という顔をして、私のスマホを取り出すと勝手に緊急連絡先の悠人へ発信し、スピーカーを入れた。

 呼び出し音が長く続いて、ようやく繋がる。看護師が焦った声で切り出した。

「花沢瑞季さんのご家族の方でしょうか。患者さんは多臓器不全で、容体が非常に危険です。すぐに市一院へ来て、最後に——」

 病室は死んだように静まり返り、聞こえるのは私のかすかな呼吸だけ。

 数秒後、受話口の向こうから、心底うんざりしたような冷笑が返ってきた。

「瑞季、お前いくらで役者雇った? 真紀子と翔一に謝るのが嫌で、多臓器不全なんて馬鹿げた台詞まで考えたのかよ」

 看護師が目を見開き、慌てて言い募る。

「いえ、私は市一院の看護師で、花沢さんは本当に——」

「もういい。伝えとけ、その芝居は下手すぎる」悠人が苛立ち気味に遮る。

「今すぐ戻って真紀子に土下座して詫びないなら、外で野垂れ死んで二度と帰ってくるな!」

「ツー、ツー……」

 容赦なく切られた通話。冷たい話中音が刃物みたいに耳を裂いた。

 私は最初から最後まで、一言も発していない。涙だって、とっくに枯れていた。

 こわばった指でスマホを受け取ると、私は静かに「延命措置を希望しない」同意書に署名し、手の甲の点滴針を抜いた。

 今にもばらけそうな身体を引きずって屋敷へ戻り、母が昔、私のために授かったお守りだけ持って出ていこうと思った。

 ドアを押し開けた瞬間、熱い湯呑みが額めがけて飛んできた。

 「ガンッ」と鈍い音。陶器が砕け、額の温かな血と茶が混じって目に流れ込む。

 立っているのがやっとの私の耳に、真紀子の引き裂くような泣き叫びが飛び込んだ。

「昨日の夜、翔一が裏庭の観賞池に落ちたの! もう少しで溺れ死ぬところだった!」

「医者が言ってた……あと一歩遅かったら脳が酸欠で、バカになるって!」

 彼女の瞳の奥に一瞬だけ覗いた毒。そこで全部、理解した。私は必死に言い返す。

「違う……私は昨夜ずっと病院で救命処置を——真紀子が私を陥れ——」

 言い終える前に、悠人の蹴りが膝に刺さった。体重ごと叩きつけられ、私は床に膝をつく。

 見下ろす悠人の指が私を指し示す。眼差しは毒を煮詰めた刃そのものだった。

「この毒女! やるなら俺に来い! 三歳の子どもに殺す気で手を出すなんて、頭イカれてるだろ!」

「真紀子は昨夜、お前のこと庇ってたんだぞ。わざとじゃないって。なのに今さら被害者ぶって、よく言えるな!」

 彼は底まで失望した目で私を見る。まるで悪臭を放つゴミでも見るみたいに。

「瑞季、お前のその顔、反吐が出る。俺が人生でいちばん後悔してるのは——一度でもお前を愛したことだ」

 骨髄の奥から、末期の骨の痛みがじわじわと全身へ広がる。喉の奥に濃い鉄錆の味がせり上がった。

 血が口角を伝い、大きく、何度も吐き出される。

「私も後悔してる……目が潰れてた。あなたたちに出会ったことが」

 唇を噛み切ってようやく立ち上がり、よろめきながら玄関へ向かう。

 真紀子が白々しく手を伸ばしてきたが、謙介が乱暴に引き戻した。

「放っとけ。出てけって言ってんだろ」

「外で死ねばいい! 家の敷地を汚すな!」

 私は何ひとつ持たず、振り返りもしないまま、二十年以上私を閉じ込めてきた牢獄を出た。

 ホスピスの個室に入ってからの数日、私は狂ったように髪が抜け、何度も意識を失った。

 スマホの画面が灯る。謙介からのメッセージだった。

 添付されていたのは、新しい家族写真。

 写真の中で、真紀子は本来なら私のものだった結婚指輪をはめ、悠人の腕に寄り添っている。両親と謙介は笑顔で、頬が崩れそうなくらい幸せそうだ。

 調和の取れた一枚。ただひとつ、そこに私だけがいない。

 真紀子は自分のアカウントから、挑発するようなボイスメッセージを送ってきた。

「瑞季、見て。あなたがいないほうが、私たちが本当の家族なの」

 残った力をかき集め、私は数文字だけ打ち込む。

「一生、くっついてろ」

 最後の一文字を送ったあと、私は静かに電源を落とした。

 激しい咳き込みとともに、どろりとした暗赤色の血が塊になって噴き出し、真っ白な病衣を目もくらむほどに染め上げる。

 心電図モニターの電子音が、だんだん弱く、細くなっていく。そして——耳障りな一直線へ。

 寒い……やっと、休める。

 その頃、高級病室で翔一に付き添っていた悠人と謙介のもとへ、病院から一本の電話が入った。

「もしもし。花沢瑞季さんのご家族の方でしょうか。花沢さんは十分前、救命措置の甲斐なく亡くなられました。至急、病院までご遺体のお引き取りにお越しください」

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