第1章 知らない人とスピード婚
田中唯はドアの外に立ち、部屋の中から聞こえてくる淫らな声に、怒りで全身をわなわなと震わせていた!
ここは彼女の新居。彼女と高橋雄大の新居になるはずの場所だ。
部屋の中にある調度品は一つ一つ彼女が心を込めて選び抜き、その配置も隅々まで熟考を重ねて決めたものだった。
中にある新婚用のベッドは、昨日届いたばかり。
明日は、二人の結婚式だ。
それなのに今日、彼女の婚約者はその新婚用のベッドの上で、別の女と情熱的に絡み合っている!
服が玄関から寝室まで散らばり、閉まりきっていなかったドアの隙間から、ベッドの上で交わる二人の姿がはっきりと見えてしまった!
「あんたの婚約者がヤってるのは、俺の彼女だ」
彼女の背後に、長身の男が立っていた。その瞳は鋭く、まるで夜の鷹のようだ。冷たく孤高でありながら、人を圧倒する気迫に満ちている。
「わ……私も被害者なんです」
田中唯は我に返り、悔しさに目を赤くした。
壁にはまだ彼女と高橋雄大のウェディングフォトが掛かっており、披露宴の予約も済んでいる。今、誰よりも辛いのは彼女だった。
「唯?」
高橋雄大はついにドアのところにいる人影に気づき、慌てて女の上から転がるように降りた。
女のほうは落ち着いたもので、布団を一枚引き寄せて体を覆い、「彼氏」に浮気現場を押さえられたという動揺は微塵も見せない。
「唯、聞いてくれ、説明させてくれ」
高橋雄大はシーツを体に巻きつけ、顔を真っ赤にしながら駆け寄ってくると、必死に言った。
田中唯は彼を見つめる。明日、自分と結婚するはずの男が、今はこんなにも見知らぬ他人のようだ。
乾いた音が響き、彼女はまず高橋雄大の顔に平手打ちを食らわせた。
「いいわ、説明して」
「わざとじゃないんだ。ただベッドが使えるかどうか試したかっただけで、つい我慢できなくなって……」
田中唯は言葉を失った。
彼が、無理やりだったとか、薬を盛られたとか言えば、まだ信じたかもしれない。
それが今、ベッドが使えるか試したかった、ですって?
「高橋雄大、私のこと馬鹿にしてるの?」
高橋雄大は顔を真っ赤にし、逆ギレして怒鳴った。「ああ、そうだ、浮気したよ! それがどうした? だいたいお前のせいだろ! 結婚間近だってのに気取ってやがって、手をつなぐだけで、キスさえさせない。小学生の恋愛かよ? 俺は男なんだ、発散も必要なんだよ。お前がさせてくれないから、俺が他の女にいくしかなかったんだ」
「じゃあ、あなたが浮気したのは、全部私のせいだって言うの?」
まさか高橋雄大がここまで恥知らずだとは思わなかった。反省するどころか、開き直って責任をすべて彼女に押し付けるなんて。
怒りで胸が張り裂けそうで、頭の中が真っ白になり、涙が目に溜まる。
「当たり前にお前のせいだろ。お前がとっくに俺にさせてくれてたら、俺だって他の女といい加減なことしたりしなかった」高橋雄大は悪びれもせずに言い放った。
しばらくして、彼はまた口調を和らげ、彼女をなだめにかかる。「唯、明日はもう結婚式なんだ。このことはなかったことにしよう。お前だっておばあ様をがっかりさせたくないだろ! あの方は、お前が結婚するのを心待ちにしてるんだ。もしお前が直前で式をキャンセルしたら、きっと心配されるぞ」
「あなたの言う通りね」田中唯は目を赤くしたまま言った。「おばあ様を心配させるわけにはいかない。だから……結婚式はキャンセルできない」
高橋雄大は得意げな表情を浮かべた。
やはり、田中唯のような女は御しやすいと、彼は分かっていた。
「俺と結婚しろ」
背後の男が突然口を開き、驚くべきことを言った!
田中唯は衝撃を受けて彼を振り返った。
男は絶世の美貌の持ち主だった。彫刻のように整った目鼻立ちは、息をのむほど美しい。
「何を冗談で……」
「冗談かどうかは、試してみれば分かる」男は彼女の手を握った。
「お前は誰だ? こいつは俺の女だぞ」
高橋雄大は逆上して手を伸ばし、二人を引き離そうとした。
しかし、男の気迫は凄まじく、一振りで彼の手を払いのける。そしてベッドの上の女を冷ややかに一瞥し、田中唯を連れてその場を去った。
…………
一時間後、二人は市役所の前に立っていた。
「身分証は持っているか?」男が尋ねる。
「いつも持っています」田中唯は答えた。
「良い習慣だ」
男はそう褒めると、中へ向かって歩き続ける。
この時期の江城市は真夏で、今日は特に蒸し暑い!
車を降りて入り口まで歩くだけの短い距離で、田中唯の額にはすでに薄っすらと汗が滲んでいた。
頬も赤く火照り、瞳は一層黒く、輝いて見える。
男に手を引かれている。その手は長く、力強い。指先はどっしりと落ち着いていて、安心感と温もりを与えてくれる。
しかし、やはり緊張し、どこか居心地が悪かった。
しばらくためらった末、勇気を振り絞って男の手を振り払った。
赤らんだ小さな顔を上げ、輝く瞳で彼を見つめ、不確かな声で尋ねる。「本当に、私と結婚するんですか?」
「冗談は好きじゃない」
男はそう答えた。
「でも、あなたのことも知らないし、何も分かりません。きっと、あなたも私のことを知らないでしょう。お互いに何も知らないまま結婚するなんて、適切じゃないと思います」
先ほど高橋雄大の前では、一時的な激情に駆られて同意してしまった。
今、冷静になってみると、こんなやり方は不適切で、この男性に対して不公平だと感じた。
「俺の姓は鈴木。鈴木晶だ」男は自己紹介を終えると、言った。「明日の結婚式、俺と高橋雄大、どっちを選ぶ?」
田中唯は心の中で、どちらも選びたくないと叫んだ。
だが、それは不可能だと分かっている。
明日の結婚式は予定通り行わなければならない。キャンセルすれば祖母が心配する。自分にわがままを言う資格はない。
「あなたを選びます」
高橋雄大の裏切りを思い出すと、胸に息が詰まる。
未来がどうなるかなんて、もはや重要ではなかった。ただ目の前の難局を乗り切りたい。
それにしても……鈴木晶という名前には、どこか聞き覚えがあるような気がする。どこで聞いたのだろうか?
だが、もうそんなことを気にしている余裕はなかった。短時間で、彼以上にふさわしい相手を見つけることなどできない。
この男性は気品があり、それにとても端正で美しい顔立ちをしている。対する自分は、顔がそこそこ綺麗という以外に何も取り柄がない。彼が自分を騙す必要もないだろう。
婚姻届の提出はあっという間に終わり、二人はすぐに庁舎から出てきた。
だが、外に出た途端、彼女自身の婚姻届は、鈴木晶に取り上げられてしまった。
「やっぱり私が持っています!」田中唯は返してもらおうとする。
「俺が持っておく」
男の口調は有無を言わせぬほど強い。
田中唯は唇をきゅっと結び、このことで彼と争うのはやめた。
「あの、明日の結婚式のことですが……」
「それは俺が処理する」
「あ、はい」
田中唯は素直に頷いた。
「運転手に家まで送らせる」
いつの間にか、別の車が停まっており、運転手が道端に立って彼女のためにドアを開けている。
彼がどこへ行くのか、田中唯は尋ねたかった。
だが、少し考えて、やはり尋ねるのをやめた。
婚姻届を出したとはいえ、まだ知り合ったばかりだ。あまり聞きすぎるのも良くないだろう。
車に乗り込み、自宅の住所を告げると、彼女の頭の中はどうやって家族にこのことを話そうかという考えでいっぱいになった。
結婚式の前日に花婿を替えるなんて、この街中を探しても、きっと自分が初めてだろう。
