第7章 彼はやはり彼女を愛している
藤咲花音が微睡(まどろ)みの中に沈みかけた時、廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。
少しして、桐島翔太が心配そうな顔で入ってきた。
藤咲花音がすでにベッドに入っているのを見て、桐島翔太の表情はいっそう曇る。
彼はベッドサイドに腰を下ろし、声を潜めた。
「花音、どこか具合が悪いのか? さっきの声、様子がおかしかったから」
その声を聞いた瞬間、藤咲花音の脳裏に、先ほど彼が如月奈々と一緒にいた光景がフラッシュバックした。
午後いっぱいまるまる、彼女の見えないところで、二人は何をしていたのか?
如月奈々があれほど自慢げな口調だったのだ、さぞ楽しい時間を過ごしたに違いない。
ほんの数秒想像しただけで、強烈な吐き気がこみ上げてくる。
藤咲花音は不快感に身を縮め、布団に深く潜り込んで答えなかった。
桐島翔太は彼女の顔が紅潮しているのを見て、額に手を当てた。掌に滚るような熱さを感じる。
「熱がある」彼は自責の念に眉をひそめた。「雨に濡れたのか? ごめん、やっぱり俺が先に迎えに行くべきだった」
彼の接触が、藤咲花音の不快感を頂点に達させた。
「うっ……」
藤咲花音は彼の手を乱暴に振り払い、よろめきながらバスルームへと駆け込んだ。
寝室に、彼女のえづく声が響く。
桐島翔太は狼狽し、慌てて桐島家の主治医に電話をかけた。
コール音が何度か鳴り、ようやく相手が出る。
事情を聞いた主治医は、向こうで誰かと二言三言交わした後、すぐに駆けつけると答えた。
電話を切ると、藤咲花音もバスルームから出てきた。
桐島翔太は水を注ぎ、彼女を支えようと手を伸ばした。
「触らないで」
藤咲花音の声は硬く、あからさまに彼の接触を避けた。
完全に拒絶された形だが、桐島翔太は怒らなかった。自分が遅れたせいで藤咲花音が風邪を引いたのだから、彼女が怒るのも無理はないと思ったのだ。
「悪かった、もう二度としない」彼は言った。「とりあえず水を飲んで。薬を持ってくるよ、先生もすぐに来るから」
そう言って、彼は薬を取りに出て行った。
彼がいなくなると、藤咲花音は起き上がり、コップの水を捨てて注ぎ直し、二口飲んでからまた横になった。
桐島翔太が薬を持って戻り、彼女はそれを飲んで、朦朧としたまままた眠りに落ちた。
再び目が覚めたのは、桐島翔太と主治医の話し声が聞こえたからだ。
「これは征十郎様が、藤咲さんがご病気だと知って、ついでに持たせてくれた栄養剤です」
主治医の声だ。
桐島翔太からの電話を受けた時、彼はちょうど桐島征十郎の治療をしていたらしい。
桐島翔太が尋ねた。
「叔父さんの具合はどうなんだ?」
「いつもの持病ですよ、不眠症で眠れないと」
主治医は話しながら、藤咲花音のそばへ歩み寄った。
「藤咲さんのお熱は高いですか?」
藤咲花音は答えようとしたが、解熱剤が効いているのか、瞼が重くて開かない。
「ただの風邪でしょう、汗をかけば治ります」
主治医は簡単に診察を終えた。
桐島翔太はようやく胸を撫で下ろし、主治医を見送った。
部屋に戻り、服を脱いで布団に入ると、藤咲花音を抱き寄せた。
眠りの中で、藤咲花音は無意識に抵抗し、逃げようともがく。
桐島翔太は腕の中の彼女を見て、ここ数日の疑念が再び頭をもたげた。
藤咲花音が自分を拒絶している、それは肌で感じていた。
以前の彼女なら決してこんなことはなかった。
普段なら、今頃は甘えるように彼の懐に潜り込んでくるはずだ。
まさか、彼女は気づいたのか?
桐島翔太の心臓がドクリと沈み、藤咲花音を抱く腕に無意識に力が入る。
藤咲花音が苦しげに声を漏らし、桐島翔太は我に返ってゆっくりと腕を緩めた。
いや、そんなはずはない。あの夜、彼女は深く眠っていた。
それに彼女の性格なら、本当に何か気づいたのなら、黙って胸にしまっておくようなことはしないはずだ。
桐島翔太は一晩中自分にそう言い聞かせていたが、空が白む頃になっても、心はまだざわついていた。
彼は熟睡している藤咲花音を一瞥し、忍び足でベッドを降りた。
しばらくして、階下から車のエンジン音が聞こえ、桐島翔太は別荘を後にした。
藤咲花音が目を覚ました時、外はすっかり明るくなっており、寝室には彼女一人だった。
夢うつつに聞いた物音を思い出し、藤咲花音は自嘲気味に唇を歪めた。
冷えからくる熱は上がるのも早いが下がるのも早い。もうだるさは感じなかった。
身支度を整え、朝食をとりに階下へ降りる。
降りたところで、キッチンから家政婦の佐藤の困ったような声が聞こえてきた。
「坊ちゃん、やっぱり私がやりましょうか? 奥様ももうすぐ起きられますよ」
藤咲花音は不思議に思ってキッチンの方を見た。
桐島翔太は白いシャツの袖をまくり、腕を露出させ、高価なスラックスに小麦粉をつけて立っていた。
「カノンはこの二日機嫌が悪いんだ、俺にやらせてくれ」彼は言った。
佐藤が感心したように言う。
「本当に奥様を大切になさっているんですね」
桐島翔太はワンタンを包み、鍋に放り込んだ。
「それでも彼女はまだ怒ってるんだ」
二人が話していると、桐島翔太が振り返り、藤咲花音の姿を見て、顔に浮かべていた困惑をすぐさま心配の色に変えた。
「花音、気分はどう? 良くなった? 君が好きだったワンタン屋が閉まっちゃったから、店主を探し出してレシピを教えてもらったんだ。今できたところだよ、食べてみて」
藤咲花音を見つめる彼の瞳は、気遣いと愛に満ちていた。
藤咲花音はしばらく彼を見つめ、複雑な心境になった。
彼女には分かる。桐島翔太の彼女への愛に嘘偽りはない。
彼はまだ彼女を愛している。
だが、それほど愛しているのなら、なぜ裏で他の女と関係を持つのだ?
「味はどう? 好みかな?」
桐島翔太は彼女がワンタンを食べるのを見て、期待を込めて尋ねた。
藤咲花音は彼の目を見て、やはり理解できなかった。
人の身体と心は、本当に分けられるものなのだろうか?
思わず尋ねようとしたその時、桐島翔太の声が先に響いた。
「花音、教えてくれないか。俺、一体何をしたんだ? このところずっと怒ってるだろう?」
彼はもう我慢できなかった。このままでは藤咲花音を失ってしまう気がしたのだ。
桐島翔太は覚悟を決めていた。もし藤咲花音が本当に何か気づいているのなら、殴られても罵られてもいい、彼女が許してくれるなら。
藤咲花音の瞳が静けさを取り戻した。
事ここに至ってもまだ、桐島翔太は探りを入れている。
「何でもないわ。ただここ数日就職活動で忙しくて、少し疲れてるだけ」
彼女は目を伏せ、感情を隠した。
桐島翔太はまた後ろめたさを感じた。
「どうしても見つからないなら、もういいじゃないか。家で専業主婦をして、俺が毎月小遣いを渡す。働くのと変わらないだろう?」
藤咲花音は顔を上げて彼を見た。
「全然違うわ」
桐島翔太は妥協した。
「分かった、ゆっくり探せばいい。でも、もう冷たくしないでくれ。俺が何か悪いことでもしたのかと思ったよ」
藤咲花音は何食わぬ顔で彼の目を見た。
「実は、結婚したあの夜、夢を見たの」
桐島翔太の顔色が目に見えて変わった。
「どんな夢だ?」
藤咲花音は彼の緊張を見て取り、口元を歪めて笑った。
「ベッドの上をネズミが走り回る夢よ。なんだか縁起が悪い気がして」
