第112章

犬がゆっくりと、山下麻友の方へ歩み寄ってくる。麻友はぎこちない動きで後ずさったが、その歩みはあまりに遅い。ふと、誰かに言われた言葉が脳裏をよぎる。

『人馴れしていない犬を見ても、決して逃げてはいけない。背を見せれば、追ってきて噛みつかれる』

だが、この狭い空間で、麻友に退路などあるはずもなかった。わずか三歩で背中は冷たい壁にぶつかり、じりじりと距離を詰めてくるその獣を見つめることしかできない。

犬は口を開き、ダラダラと涎を垂らしながら、その淀んだ眼球で彼女を死に物狂いで凝視している。

麻友には、その視線の意味が痛いほどわかった。

凶暴、そして貪欲。

彼女は、犬が怖かった。

心の...

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