第1章
熱々の味噌汁が顔にぶちまけられた瞬間、私は無意識に身を躱した。それでも、半分以上の汁が顔にかかってしまう。
「クズ! 人様の旦那を誘惑するなんて、この泥棒猫!」
藤井絵の甲高い叫び声が、薄暗い居酒屋に響き渡った。
「どの面下げて生きてんのよ!」
周りの客たちが一斉にこちらに目を向け、ひそひそと囁き始める。
「浮気相手じゃないか? 自業自得だろ」
「今の女は本当に恥知らずだな……」
「本妻にやられて、まだ座ってんのかよ」
ヒリヒリと熱を持つ頬に触れながら、私は自分の置かれた状況を理解した。
私は死後、生まれ変わったのだ。そして、藤井絵に味噌汁をかけられた、まさにその瞬間に。前世のこの時、私は沈黙を選び、藤井絵の侮辱も、周りの人々の非難も、すべて甘んじて受け入れた。
前世の彼女が暴行を受け、精神に異常をきたしたのは、私と月城柊に拭いきれない責任があると思っていたからだ。
だから、私は彼女のすべてを我慢した。
けれど、死ぬ間際に私は真相を知ってしまった……。
「凛!」
月城柊が慌てて駆け寄ってきて、優しくハンカチを取り出して私の顔を拭おうとする。
「大丈夫か? 絵はわざとやったんじゃないんだ……」
目の前の見慣れた顔を見て、胸がずきりと痛んだ。前世で彼が私を責め立てた声が、耳元で何度も響き渡る。
『俺たちのせいで、絵はあんな風になっちまったんだ。少しは我慢してやれないのか? 彼女はもう、ただの病人なんだぞ!』
「触らないで!」
私は反射的に彼の手を振り払った。
月城柊は呆然とし、ハンカチを握った手は宙で止まった。
私はゆっくりと立ち上がり、藤井絵の得意げな顔を真正面から見据える。
「藤井絵」
私の声は異常なほど平然としていた。その静けさに、周りの喧騒さえもがぴたりと止まる。
私は目の前にあった、まだ湯気の立つ味噌汁の碗を手に取ると、藤井絵の恐怖に歪む視線の中、躊躇なく潑ねかけた。
「きゃあああ——ッ!」
藤井絵は顔を押さえて甲高い悲鳴を上げる。その声は、聞く者の心をえぐるようだった。
「熱い! 柊君、助けて!」
周りの客たちは息を呑む。私のような、見た目はおとなしそうな女が反撃に出るとは思ってもみなかったのだろう。
床を転げ回る藤井絵を冷ややかに見下ろし、私は笑った。
「知ってる? ずっと前から、こうしてやりたかったの」
「凛! なんてことをするんだ!」
月城柊が勢いよく立ち上がり、私を睨みつける。
「絵は病人だぞ! 病人にむかって何てことを!」
「病人?」
私はその言葉をゆっくりと繰り返し、目に嘲りの光を宿らせた。
「病人なら、人を好き勝手に傷つけてもいいの? 病人なら、何でも許されるっていうわけ?」
「彼女の今の状態は、お前も知ってるだろ。あの事件以来……」
「もういい!」
私は彼の言葉を遮った。
前世の私は、この理屈に三年間も縛られ続けたのだ! 『俺たちが彼女に申し訳ない』だの、『彼女は俺しか頼れない』だの、『彼女を理解してやってくれ』だの!
私は手を振り上げ、力いっぱい月城柊の頬を引っぱたいた。
乾いた音が居酒屋に響き渡り、その場にいた誰もが凍りつく。
月城柊は頬を押さえ、信じられないといった顔で私を見つめた。
「凛……お前……」
「あなたにも、ずっと前からこうしてやりたかった」
私の瞳に、後悔の色は一片もなかった。
「月城柊、今日のこの言葉を覚えておきなさい——私たち、離婚よ」
私はバッグから一枚の婚姻届を取り出し、テーブルの上に叩きつけた。
「午後三時、区役所の前で。来なかったら、同意したものと見なすから」
私は背筋を伸ばし、皆が驚愕する視線の中を、店の入口へと向かった。
「凛! 行くな! ちゃんと話し合おう!」
月城柊が背後で叫ぶ。
何を話すことがあるというのだろう。私たちの間に、もはや話すべきことなど何一つない。
私たち三人は、同じ児童養護施設で育った孤児だった。かつては兄妹のように仲が良く、月城柊が七歳の時に月城家に引き取られて連絡が途絶えた後も、十年後に大学で再会し、また三人で集まるようになった。
あの頃の藤井絵は、三人の中で一番よく笑う子だった。彼女は私に言った。
「もし二人が結婚するなら、絶対に私をブライズメイドにしてね」
だから、彼女も月城柊を好きだなんて、私は夢にも思っていなかった。
私たちの結婚式の日、私は約束通り彼女に招待状を送り、ブライズメイドを頼んだ。
しかしその日、私の指輪が突然見当たらなくなり、彼女は私の代わりに家まで指輪を探しに戻ると申し出てくれた。その帰り道、彼女は酔った浮浪者に暴行された。
病院に運ばれた時、彼女はずっと月城柊の名前を呼び続け、柊君に会いたいと泣き叫んだ。
私たちは結婚式を中止し、交代で彼女を看病した。
その日から、藤井絵は変わってしまった。彼女は私を見ると狂ったように暴れ、物を投げつけ、私を罵った。私のせいで本来あるべきだった自分の幸せを奪われた、と。そして最後には月城柊の腕の中に縮こまり、彼が慰めてくれるまで感情を鎮めようとはしなかった。
月城柊はいつも私に言った。
「俺たちが彼女に申し訳ないんだ。俺たちの結婚式のためじゃなければ、彼女はあんな目に遭わなかった」
「凛、これからは……彼女から少し距離を置いてくれないか?」
最初はただ彼女から距離を置くだけだった。だが次第に、月城柊は藤井絵を優先するようになった。
私たちの間に何があろうと、彼は藤井絵のことを第一に考え、彼女から電話一本あれば、すべてを放り出して駆けつけた。
私もまた、彼が簡単に放り出せるものの一つだった。
そして私は、罪悪感から我慢を選び、不満一つ口にできなかった。
だが、そのすべては、今日で終わりだ。
私は一度も振り返らず、居酒屋から一歩踏み出した瞬間、指にはめていた結婚指輪を力任せに引き抜いた。
今度こそ、私は自分のために生きる。
