第2章

周防律の叫び声は、あっという間に屋敷じゅうへ響き渡った。

夏目南はそのまま周防律を連れて、夜のうちに病院へ駆け込んだ。

酒はすっかり抜け落ちているらしく、周防律の顔色は鍋底みたいに真っ黒だ。

夏目南はちらりとその横顔を見た。少なくとも、男として逆上して手を上げてくる気配はない。そこだけは救いだった。

とはいえ、夏目南だっていちいち彼の顔色をうかがいたいわけじゃない。ただ、点滴がまだ終わっていない。どうあれ、自分が蹴り上げた結果なのだから、完全に放り出すのも後味が悪かった。

そのとき、周防律のスマホがぶるっと震えた。

彼はほとんど反射で通話を取り、夏目南が一度も聞いたことのないやわらかな声を出す。

「茜……」

受話口の向こうから聞こえたのは、江村茜のかすかに震えた声だった。

「律君、空港で私たちを撮ってたパパラッチ、多分こっちまでついてきた……今、ドアの外にいて、ノックしてるの。どうしたらいい?」

「大丈夫だ。怖がるな。鍵をちゃんとかけて、絶対に開けるな。今すぐ行く」

そう言うやいなや、周防律は右手で点滴のチューブを引き寄せ、そのまま手の甲の針を乱暴に引き抜いた。白い医療テープの下から、赤い血がじわりとにじみ、みるみる広がっていく。けれど本人は気にも留めず、上着と車のキーを掴むと、そのまま大股で出ていった。

夏目南が状況を飲み込むより早く、彼の背中はもう消えていた。

……私のことは、これで終わり?

なら、さっきの一発は軽すぎた。

どうせなら、二度と立ち直れないくらい蹴ってやればよかった。

夏目南はタクシーで家へ戻った。

玄関をくぐったとき、ちょうど周防律が湯気の立つ白湯を江村茜に差し出しているところだった。

夏目南の姿に気づいた江村茜は、いかにも自然体というふうに微笑む。

「お久しぶり。不躾じゃなければいいんだけど」

夏目南は口元だけをゆるく持ち上げた。

「もう十分、不躾だって可能性は考えなかったの?」

「夏目南――」

周防律が低く唸るように名前を呼ぶ。顔色は今にも水が滴りそうなくらい陰っていた。

けれど江村茜はまるで気にした様子もなく、周防律に向かってやんわり首を振る。

「律君、私のせいで二人が気まずくなるのは嫌だよ」

それから、今度は夏目南へ視線を向けた。

「もし都合が悪いなら、別のホテルを探してもいいの」

二人の視線が絡み合う。あまりにも親密で、糸でも引いていそうなほどだった。

それを見た瞬間、夏目南はぞわりとした嫌悪感に襲われた。胃の奥がむかつき、実際に込み上げてくる。

「……っ」

思わずえずく。

周防律の顔つきがさらに険しくなった。

「夏目南、いい加減にしろ――」

夏目南はひらひらと手を振った。

「ごめん。生理的な反応だから。別にあなたたちを見て気持ち悪くなったわけじゃないの」

「夜通し振り回されて、ほんとに眠いの。あとはご自由に」

そう言い捨てると、そのまま階段を上がって寝室へ向かった。

――私は病人だ。

今の私に必要なのは、十分な休息。それだけ。

だが、うとうとと眠りに落ちかけたところで、ばんっと乱暴に布団を剥がされた。

「夏目南。お前には、はっきり言っておくことがある」

突然叩き起こされて、夏目南の苛立ちは一気に天井まで跳ね上がる。

「ちゃんと戻ってくるんだ。てっきり今夜はあの人の部屋で寝るのかと思った」

「話なら明日にして。私は寝る」

「何をわけのわからないこと言ってるんだ。頭にでも血が上ってるのか?」

周防律の声には、露骨な苛立ちと警告が混じっていた。

「江村茜は、しばらく家に泊まるだけだ。その間、余計なことはするな」

夏目南は冷えきった笑みを浮かべた。

「しばらく?」

「3日? 1週間? それで足りなきゃ1か月? 1年?」

「必要なら、部屋でも家でも空けてあげようか?」

その皮肉に、周防律の眉間がぴくりと跳ねる。

「夏目南、お前って本当に薄情だな」

「茜はつきまとわれてるんだ。一人でホテルに泊まらせるのは危ない。いちいち嫌味ったらしく言うな」

夏目南は気圧されたくなくて、わざと身体を起こして座り直した。

「じゃあ、私は問いただす権利すらないってこと?」

「あると思うのか?」

即答だった。しかも、うんざりしたような声で。

――やっぱり、ないんだ。

周防律にとって、自分はそういう立場なのだ。

夏目南は目の前の男を見つめた。結婚して3年になる夫。なのに、今はひどく見知らぬ誰かのように思える。

二人の間に愛情なんてない。それは最初からわかっていた。

父と継母に半ば売られるようにして、彼のベッドへ送り込まれたあの日。あれは自分だけを閉じ込める檻じゃなかった。周防律にとっても、同じだったはずだ。

だから最初の頃、夏目南はずっと負い目を感じていた。

彼に悪いと思った。

埋め合わせたかった。

どうにか関係をましなものにしたくて、必死にもなった。

けれど、結局。

一人だけが頑張ったところで、二人の関係なんて何ひとつ変わらない。

不意に、どうしようもなく疲れた。

3年。

もう、自分には二度目の3年なんてない。

だったら、どうしてこんな無意味な消耗を続けなきゃいけないのだろう。

どうして、自分がやりたいことのために生きてはいけないのだろう。

黙り込んだままの夏目南を見て、周防律もさすがに言い過ぎたと思ったのか、少しだけ口調を和らげた。

「……ただ、わかってほしいだけだ」

「江村茜は帰国したばかりで、頼れる相手がいない。俺が放っておくわけにはいかない」

「それで?」

夏目南は斜めに彼を見上げた。

「本気でやり直したいなら、どうぞご自由に」

「場所くらい譲る。明日にでも私は出ていくから」

周防律はわずかに眉を寄せ、そのまま目を閉じた。夏目南の刺すような視線を見たくないとでもいうように。

「好きに解釈しろ」

「少なくとも、俺はやましいことはしてない」

少し間を置いてから、彼は続けた。

「それと、もう一つある」

「茜はスタンフォードでAI系のバイオニクスを専攻していた。どこの会社も欲しがる技術者だ」

「お前が彼女を連れて大崎様と話をやり直せ。茜がいれば、うちの技術力が他社より頭一つ抜けてることを先方にもわかってもらえる。交渉もしやすくなるはずだ」

夏目南は一瞬、自分の耳を疑った。

恋愛沙汰で舞い上がって判断が鈍っているのかと思えば、仕事にまでこんな無茶苦茶な口出しをしてくるなんて。

「周防律」

夏目南の声は冷え切っていた。

「ヒロトグループとの提携を、子供のままごとだと思ってるの?」

「彼女はうちの製品について何も知らない。あなたの言う「技術力」だって、現段階じゃただの絵空事よ」

「ヒロトグループがそんな話で納得すると思う?」

その言葉に、周防律の火が一気についた。

「お前こそ思い上がるな」

「会社の核は営業じゃない。技術だ」

「能力がある人間なら、前に出るべきだろ」

「夏目南、公私混同するな」

「公私混同してるのはあなたでしょ」

夏目南は一歩も引かなかった。

「この契約のために、うちのチームがどれだけ動いたと思ってるの」

「2か月以上、必死で追い続けてきた案件よ」

「そんなところへ外から来た人間を割り込ませて、最後だけ手柄を取らせるような真似、私は絶対に認めない」

その瞬間、夏目南の中で何かが完全に冷えた。

江村茜を平然と家へ連れ込んだ時点で、もう十分に限界だった。

けれど、自分の仕事にまで踏み込まれたとなれば、話は別だ。

それは完全に、一線を越えている。

夏目南の頑なな横顔を見て、周防律はわずかに息を詰まらせた。

どう説明すれば、この女はもっと平静に江村茜を見られるのか。

そんなふうに考えている顔だった。

そのとき、こんこんと控えめなノックの音がした。

「ごめんなさい。立ち聞きするつもりはなかったんだけど……私のことで意見がぶつかっちゃったみたいで、本当にごめんね」

扉の外から、江村茜が申し訳なさそうに微笑む気配がする。

さっきまで氷のようだった周防律の表情が、すっと和らいだ。

「茜、お前は悪くない。謝る必要なんてない」

江村茜は夏目南のほうにも笑みを向ける。

「もし私がここにいることで気分を悪くさせてるなら、やっぱりホテルに戻るよ」

「違う。仕事の話だ」

周防律はきっぱりと言った。

「お前は部屋に戻って休め。時差もあるだろうし」

「こっちは俺がどうにかする」

江村茜は少しためらったあと、ゆっくり頷いた。

「……うん。わかった」

そうして客間へ戻っていく。

周防律は部屋の入口で足を止め、夏目南を淡々と見下ろした。目だけが冷たい。はっきりした警告の色を宿している。

「自分でよく考えろ」

「考えがまとまったら来い。俺は書斎で寝る」

言外に滲んでいたのは、

――融通の利かない女には、少し痛い目を見せたほうがいい。

そんな傲慢さだった。

夏目南は奥歯をぎり、と噛みしめた。

江村茜が本気で申し訳ないと思っているはずがない。

一歩引くふりをして、実際には着実に入り込んできている。

いや。

周防律だって、気づいていないわけがない。

気づいたうえで許しているのか。

それとも最初から、自分に説明する義務など感じていないのか。

……もう、いい。

どうでもよくなった。

この男を、もう要らない。

自分の命には、もう終わりが見えている。

身体の奥では、残された時間が少しずつ零れ落ちていくのを確かに感じている。

その残り時間まで、こんな終わりのない消耗に費やしたくはない。

自分の人生は、自分に返す。

周防律の人生も、周防律に返す。

彼がずっと忘れられなかった高嶺の花が戻ってきたのなら――

自分みたいな、いてもいないのと同じ妻は、退くべきなのだろう。

夏目南はスマホを手に取り、見慣れたアイコンを開いた。

そして、短く打ち込む。

『早坂、離婚協議書を作ってもらえる?』

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