第5章
夏目南の機嫌は最悪だった。
本当は周防律に真実を話すつもりだった。三年という夫婦の情分に免じて、せめて自分の家族のことを少しでも気にかけてもらえないか――そう思っていたのに。
鼻で笑う。結局、まだ見切れていないのだ。もし彼を頼れるなら、綾人に頭を下げたりしない。
車を出す前から、仕事用グループチャットの通知が爆発したみたいに鳴り続けた。ピコン、ピコン、ピコン……。
『南さん、会社が大変! 早く戻ってきて!』
佐藤のメッセージ。文字からでも焦りが伝わってくる。
続けて、部署の面々から怒涛のように――。
『南さん、ヒロトグループの件、いったん保留です。向こうに電話しても全然つながりません』
『南さん、さっき周防様が来て「今回落としたら営業部を再編する」って』
『昨日周防様が会ってた女の人、未来の社長奥様かもって噂です。社長奥様が立威だとか』
『立威って、営業部ごと燃やす気? 南さん、返事ください!』
『南さん、うちの案件、二か月以上追って全員で残業してきたんです。昨日周防様が不在だったせいで飛んだら、全部水の泡になります!』
……。
周防律のことも、会社そのものも、今の彼女にはどうでもよかった。
けれど――一緒に走ってきた同僚まで見捨てるのは違う。
じわり、と頭が疼く。夏目南は長く息を吐き、こめかみを強く押さえた。痛みが引くのを待つ。
指を走らせ、短く返信する。
『落ち着いて。まず状況を確認する』
今は周防律と意地を張っている場合じゃない。営業部は皆、契約が取れれば大きなボーナスが出る。自分の感情で巻き込んで、全員を失望させるわけにはいかなかった。
それ以上に、会社は仿生人の中核アルゴリズム開発で運転資金を使い切りかけている。このオーダーを落とせば、来月の研究費も給与も危うい。
大崎の番号を見つけ、夏目南は自分の頬を軽く叩いた。笑顔を作る。声に張りを乗せる。
コール。つながる。
「大崎様、まずはお詫びを」
受話器越しの声は淡々としていた。
「夏目様、契約の件だろう。はっきり言う。誠意のない相手とは組まない」
「お怒りはごもっともです。ただ、何か誤解があるはずです。これまでのやり取りで、こちらの誠意は見ていただけたと思います」
大崎が冷笑する。
「見えたのはこれだ。サインの約束の日に、私は会議室で一時間待った。なのに貴社の総裁は空港で女を抱いて、経済ニュースの話題だ」
喉がきゅっと締まる。
「その件は、こちらの落ち度です。大崎様、挽回の機会をいただけませんか」
「君が努力しているのは分かる。だが君は営業部の責任者にすぎない。だから――悪いが無理だ」
当然だ。誠意が見えない会社に、未来を預ける理由なんてない。
夏目南は息を整え、慎重に言葉を選んだ。
「大崎様はご存じないかもしれませんが……私は営業責任者であると同時に――周防律の妻です。公にはしていないだけで、会社を代表できます」
「契約のために、そんな冗談まで言うのか?」
夏目南は半分笑うふりをして、けれど確信だけは崩さなかった。
「結婚証明、送ります?」
数秒の沈黙。
やがて大崎が、折れるように言った。
「……そこまで言うなら、いい。今日は晩餐会がある。各社の責任者が集まる場だ。私は同伴者が必要でね。晩餐会のあと、二十分だけ時間をやる」
夏目南はようやく息を吐いた。
「ありがとうございます、大崎様」
通話を切り、グループへ送る。
『みんな落ち着いて。進展あり。連絡待ってて』
クローゼットのドレスを見回し、赤や金の派手なものは避けた。選んだのは控えめな白いロングドレス。袖を通すと、鏡の中の自分は、顔色がいっそう白く見えた。
丁寧に化粧を直し、赤みのチークを重ねる。これでようやく「元気」に見える。
指定された場所へ車を走らせ、宴会場へ入る。
大崎を探すより先に――最も見たくない影が視界に刺さった。
周防律。
濃い色のスーツ。その隣で、黒のタイトドレスを着た江村茜が、彼の腕にそっと絡みついて薄く笑っている。
引き返したくなった。だが、その瞬間。
「夏目様、こちらだ」
大崎の声。
夏目南は振り返るまでに表情を整え、品のいい笑みでゆっくりと歩いた。
その呼び声に気づいた周防律が、わずかに眉を寄せる。夏目南へ向けた視線には、露骨な警告が混じっていた。
――余計なことを言うな。
見えないふりをして、夏目南は大崎の前に立つ。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
だが大崎の顔つきは妙だった。
「礼はまだだ。夏目様、君は周防様の妻だと言ったな。なら、いま彼の隣にいる女は誰だ?」
周防律と江村茜に目を向ける。あの距離感は、ただの同僚じゃない。
大崎の声が冷えた。
「君は筋の通った人だと思ったが、契約のためなら手段を選ばないらしいな」
「誤解です、私は確かに――」
夏目南は焦った。ここで崩れれば終わる。
そこへ、周防律が江村茜を連れて歩み寄ってくる。
「大崎様、お久しぶりです。ご紹介します。こちらは江村茜。技術面の中核パートナーです。昨日は戻れず申し訳ありません。ただ、どうしてもこういう人材を逃したくなくて」
先に「筋」を通す言い方。逃げ道を潰す言い方。
「茜、大崎様だ。ヒロトグループの創業者で、当社との深い協力を検討してくださっている」
周防律が夏目南を見る。笑っているのに、目だけが鋭い。
――妻だと言うな。
夏目南は眉を寄せた。公表できないならそれでもいい。離婚協議書だって送った。
だが、この契約は営業部全員の未来だ。会社の未来でもある。ここで疑われれば、もう取り返しがつかない。
「大崎様、江村さんは確かに当社が――」
夏目南が言いかけると、江村茜が柔らかく引き取った。
「帰国してからずっと、律君にヒロトグループの凄さを聞かされてました。大崎様の決断力も。今日お会いできて光栄です」
大崎の視線が三人を行き来する。
「周防様。夏目様は『会社を代表できる』と言った。だが、どう見てもあなたの同伴者は江村小姐のほうに見えるが?」
周防律の笑みが一瞬、固まる。
彼だって分かっている。夏目南の立場を認めれば、交渉はまだつながる。
けれど――周防律は江村茜を一瞥した。
たった一秒。
それで、選んだ。
「誤解です」周防律は平然と言う。
「夏目様は当社の営業責任者。それだけです」
「……それだけ?」
夏目南は繰り返し、唇だけで笑った。
ようやく分かった。
この契約も、私の尊厳も、三年の結婚も――江村茜の前では、取るに足らない。
