第1章

リリー視点

 前世――クロエ・アシュフォードに、私は壊された。

 彼女は「親友」の顔で私に寄り添い、熱心に私と義兄のヴィンセントをくっつけようとした。

 けれど実態は、あの二人の歪んだ関係を隠すための「目隠し」として、私を利用していただけだった。

 太らせて、使い潰して、飽きたら捨てる。

 体育の授業で鼻筋を折られ、プールサイドで溺れかけ、罠に嵌められてネットで袋叩きにされ――最後は罵声の中で退学、心が折れて、屋上から身を投げて死んだ。

 ……それなのに。

 もう一度目を開けた瞬間、耳元であの声がした。

「あなたを、うちの義兄に紹介してあげる」

 私は、戻ってきた。あのパーティーの夜へ。

「リリー! リリー! こっち!」

 クロエが手を振る。腕には男の腕が絡んでいた。

 安っぽいシャンパンが入ったプラスチックカップを手に、人混みを縫って近づく。爆音のエレクトロが鼓膜を殴ってくる。

「ヴィンセント・アシュフォードよ」

 クロエは私にウィンクしてみせた。

「私の――ぎ――けい」

 わざとらしく引き伸ばす。すぐに彼女は私の耳へ口を寄せ、小声で囁いた。

「アシュフォード・グループの跡取りなの。チャンス、逃さないでね?」

 ヴィンセントはバーカウンターに寄りかかり、怠そうにグラスを回していた。乱れた濃い茶髪、灰青の瞳。白シャツの袖は肘まで無造作に捲られ、襟元はボタンが二つ外れている。

 セント・ジュディア学院の「理想の王子様」。女子が夢見る、そのままの彼。

 前世、初めて会った時は鼓動が速すぎて心臓が壊れるかと思った。

 ……今世?

 吐き気しかしない。

「……こんにちは、ヴィンセント」

 私は視線を落とした。

 冷えた目が私をなぞる。肥えた体に一秒も留まらず、すぐ逸らされた。

「ヴィンセント、そんな冷たくしないで」

 クロエが私の肩を抱き、笑みをさらに輝かせる。

「リリー、つい最近公立から転入してきたの。ちゃんと面倒見てあげてくれるよね?」

「酒、取ってくる」

 彼はそれだけ言って、バーカウンターへ。

「気にしないで。ああいう性格だから」

 クロエは肩をすくめ、そして目を細めた。

「でも……好きな相手には、すっごく優しいのよ?」

 意味ありげにウィンク。

 私が笑うと、男の子たちが一斉に寄ってきた。

 私はさっと距離を取る。

 そのとき気づく。灰青の瞳は終始、クロエを追っていた――正確には、クロエの周りに集まる男たちを。

 哀れ。義妹に恋して、ここで無関心を装うしかないなんて。

「リリー、ぼーっとしてどうしたの?」

 クロエがまた近づく。

「ほら、もっと色んな人に紹介してあげる!」

「……トイレ行ってくる」

 化粧室の鏡の中、丸い顔がこちらを睨んでいる。分厚い黒縁メガネ、だぼだぼのTシャツ。

 メガネを外し、冷水で顔を叩いた。

 考えろ。

 前世みたいに、殴られるのを待つだけじゃ駄目だ。

 ――出るとき、テラスの隅にヴィンセントが一人で座っているのが見えた。手には空のグラス。表情が重い。

 そうだ。今日は、彼の母親の命日。

 バッグから手作りのチョコチップクッキーを取り出す。本当はクロエに機嫌を取るためだった。……でも、使い道は変えられる。

 私は彼の前へ歩み寄った。

「飲みすぎは胃に悪いよ」

 ヴィンセントが顔を上げる。

「お前に関係ない」

「関係ないよ」

 私はクッキーを彼の前に置いた。

「ただ……あなたのお母さん、あなたが自分を痛めつけるの、望んでないと思う」

 瞳孔が、ぎゅっと縮んだ。

 問い返される前に、私は背を向けた。

 五分後。スマホが震える。知らない番号からの友だち申請。

 承認。

「お前が作ったのか?」

 返さない。二分後。

「何を入れた?」

 私はゆっくり打ち込む。チョコ、シーソルト、バニラエッセンス。

 長い沈黙。

「味が、母さんのとまったく同じだ」

「どうして分かる?」

 画面を睨んで、私は心の中で思い切り舌打ちした。分かるわけない。偶然だ。

 前世で、あなたを慰める羽目になっただけ。

 私は打つ。

「勘。甘いものが必要そうに見えたから」

「俺は甘いものは食わない」

 私は笑って返す。

「じゃあ、なんで全部食べたの?」

 また沈黙。

 パーティー会場へ戻ると、クロエは男たちに囲まれて花が咲いたように笑っていた。

 けれど、ヴィンセントの手に私のクッキー箱があるのが見えた瞬間――笑みが固まる。

 彼女は男たちを押しのけ、まっすぐこちらへ。

 私は目を伏せ、心の中で数える。三、二、一。

「ヴィンセント!」

 クロエの声が甲高くなる。

「それ、何食べてるの?」

 ヴィンセントは淡々と彼女を一瞥し、もう一口。

「クッキー」

「誰にもらったの?」

「重要か?」

 クロエの視線が私に刺さる。目の奥に何かがよぎった――けれど彼女はすぐ表情を整え、砂糖菓子みたいな笑顔を貼り付けた。

「リリーが作ったの? わあ、気が利く~」

「……ああ」

 ヴィンセントはまた噛む。

「でもヴィンセントって、甘いもの食べないよね? ねえ、ヴィンセント?」

「気が変わった」

 ヴィンセントの視線が私を捉える。

「結構好きだ」

 クロエの顔から血の気が引いた。

「クロエ、私ちょっと疲れた……寮に戻るね」

 私は小さく言った。

「待って!」

 彼女が私の腕を掴む。

「バッグ持ってくれてないじゃない!」

「……あ、ごめん」

 私は素直に彼女のエルメスのバッグを受け取る。飼い主の言うことを聞く犬みたいに。

 振り返る瞬間、人混み越しにヴィンセントがこちらをじっと見ていた。

 何かを測るように。考え込むように。

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