第1章

雪乃がひとり病院で点滴を受けているとき、見知らぬ番号からメッセージが届いた。

動画だ。

『ママ、お誕生日おめでとう!』

ピンクのワンピースを着た小さな影が画面へ飛び込んできて、撮っている相手にぎゅっと抱きつく。

『ずっとママと一緒にいたい』

雪乃の呼吸が、一瞬止まった。

次の瞬間、骨ばった男の手が少女の髪をくしゃりと撫でる。

『こら、気をつけろ。晴美おばさんにぶつかるだろ』

低く落ち着いた声。今まで聞いたことのないほど、やわらかい。

画面越しでも伝わってくる。「家族三人」の、あまりにも楽しげな空気。

雪乃の手の甲には針が刺さったまま、薬液がぽたり、ぽたりと落ちていく。

動画はループ再生される。彼女は自分を痛めつけるみたいに、何度も何度も見返した。目の奥がじんと痛むまで。

今朝、家を出る前。娘の萌花は言った。今夜は幼稚園の誕生日会があるから待たなくていい、と。

今野優空も言った。夜は国際会議がある、と。

――そういうこと。

国際会議は、中島晴美の家で。

娘の誕生日パーティーも、中島晴美の家で。

自分が40度の高熱で倒れていたとき、夫と娘は見向きもせず、晴美のそばにいた。

笑いたいのに、笑えない。

中島晴美は今野優空の初恋だった。

肺がんの末期。余命は三か月。

それを一か月前、優空は雪乃に告げた。

『晴美が戻ってきた。状態が良くないんだ。もう少し世話をしたい……分かってくれるだろ?』

そのとき雪乃は「分からない」と言いたかった。けれど、言葉は喉の奥に飲み込んだ。

理解する。

この五年の結婚生活で、いちばん身についたのはそれだった。

仕事が忙しいのも理解する。性格が冷たいのも理解する。心のどこかに、いつだって誰かの居場所があることも。

点滴の薬液がもうすぐ尽きる。

呼び出しボタンを押すと、看護師が針を抜きながらちらりと彼女を見た。

「お一人ですか? こんな高熱なら、迎えに来てもらったほうが……」

「大丈夫です」

手の甲の綿球を押さえたまま、雪乃は病院を出る。タクシーを拾って家へ帰った。

スマホには、メッセージひとつない。気遣いの言葉ひとつない。

胸の奥が、空洞みたいに痛んだ。

玄関を開けると、リビングの明かりはまだついていた。

ローテーブルには色画用紙とラメが散らばっている。

萌花が慎重にラインストーンを貼っていて、優空は片手で娘の肩を支え、もう片方の手でハサミを渡していた。

「パパ、晴美おばさん、この色好きかな」

「好きだよ」優空がやさしく言う。「萌花が作ったものなら、何でも喜ぶ」

萌花はにこにこしながら頷き、何か言いかけて――玄関の雪乃に気づいた。

笑みが一瞬で固まる。

「ママ?」

優空も顔を上げた。「どこに行ってた」

雪乃は照明の輪の中へ足を踏み入れる。

「病院」

優空の眉が寄った。「まだ熱が?」

雪乃は答えない。

萌花は、彼女が怒っていると思ったのか、小首をかしげて言った。

「ママ、私とパパ、晴美おばさんの誕生日カード作ってるの。晴美おばさん、あと三か月しかないんだよ? そんなケチケチしないでよ」

雪乃は返事をせず、娘の襟元についた赤い染みを見た。

「今日、ハンバーガー食べた?」

萌花は反射的に襟を押さえる。

「何度も言ったでしょう。胃が弱いんだから、揚げ物は――」

「うざい!」

萌花は手の中のカードをテーブルに叩きつけ、頬をふくらませた。

「ママはいつも私のことばっかり管理する! 晴美おばさんはしないもん! 何でも食べさせてくれるし、子どもは楽しいのがいちばんだって言うもん!」

胸が針金で締め上げられるみたいに痛くて、息がうまく吸えない。

萌花が三歳のとき、突然ひどい急性胃腸炎になった。それ以来、雪乃は食事に神経を尖らせてきた。

全部自分でやった。毎日工夫して栄養食を作った。

それでも、五年の時間は、晴美が現れた一か月に負けた。

「もういい」優空が萌花を自分の背にかばう。「萌花、先にお風呂入って寝ろ」

萌花は雪乃を睨み、カードを掴んで二階へ駆け上がった。

リビングには二人だけ。

優空がようやく口を開く。

「どこが具合悪かった。病院で何を――」

雪乃は口元を引きつらせた。「今さら聞いて、意味ある?」

優空は黙った。いつもそうだ。

雪乃は、学生のころから恋い焦がれてきたその顔を、真っ直ぐ見つめる。

黒いシャツに黒いスラックス。鋭い顔立ち。近寄りがたい、気品と冷たさ。

どう見ても、あの動画の中の「やさしい男」とは別人だった。

息を吸い、言葉を探した、その瞬間。

優空が淡々と言った。

「鈴木さんの来週の演奏会、枠を晴美に譲ってやれ」

雪乃は耳を疑った。

鈴木さんはヴァイオリン界の巨匠。大学時代の恩師だ。三年に一度しか開かれず、招待は十人にも満たない。

招待状が届いた日は、丸一日うれしくて仕方なかったのに。

「鈴木さんが招待したのは、俺の顔を立ててのことだ。君が行っても無駄だろ」

優空の声は冷たい。「晴美は違う。ヴァイオリンが上手い。君より、ふさわしい」

喉が詰まる。

結婚する前の雪乃は、国際賞も取ったヴァイオリニストだった。けれど優空は知らない。知ろうともしない。

彼の目に映る彼女は、家の中で夫と子どもの周りを回るだけの主婦。料理と洗濯以外、何もできない女。

今までは我慢した。でも今日は、もうしたくない。

「どうして?」雪乃は優空を見据える。「彼女が死にかけてること、私に何の関係があるの? 死ぬなら、世界中が道を譲れって?」

「雪乃」

優空の声が一気に冷えた。「病人にそんな言い方をするのか」

「私が悪い?」

涙があふれてくる。

「今野優空、私が高熱で倒れてたとき、あなたと萌花はどこにいたの? 電話を12回かけても一度も出なかった、そのときあなたはどこにいたの!」

優空が言葉を失う。

従順な雪乃が、自分を責めるなんて想像していなかった。

薄い唇が固く結ばれ、眼差しは氷のように冷たい。

「君は熱が出ただけだ。でも晴美は違う。もうすぐ死ぬ」

またそれだ。

雪乃はふっと笑った。

「だから、何?」

彼女は淡々と突きつける。

「彼女があなたの近くにいたいって言ったから、会社に入れて秘書にした」

「家族三人の写真が撮りたいって言ったから、萌花を連れて家族写真を撮りに行った」

「彼女があなたと結婚したいって言ったら、私と離婚して彼女を選ぶの?」

「雪乃」優空の顔が沈みきった。「喧嘩する気はない。冷静になれ」

そう言い捨て、長い脚で二階へ上がっていく。

雪乃は握りしめた拳の力が抜けた。

いつもこうだ。彼女が訴えれば「冷静になれ」で終わる。

彼の性格は冷淡なのだと思っていた。

でも晴美が現れて、初めて知った。

今野優空は笑うし、やさしくもなる。

――もし、あのとき自分が今野家の老当主を助けていなければ。老当主に結婚を強いられなければ。

自分と優空は、永遠に交わらなかった。

「今野優空」

雪乃は疲れ切って、目を閉じる。

「離婚しよう」

鞄から書類を取り出し、テーブルに置いた。

「私はもうサインした。問題がないなら、あなたも」

優空の冷えた瞳に、霜が降りる。

何か言いかけた、そのとき。

二階から「ドン」と鈍い音。

二人同時に息をのむ。

次の瞬間、萌花の部屋から苦しげな声がした。

「パパ……ママ……息が……できない……」

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