第2章

雪乃と今野優空は、弾かれたように二階へ駆け上がった。

子ども部屋のドアを押し開けると、今野萌花が床に倒れている。小さな顔は真っ赤で、唇は紫色。細い指が力なく喉元をかきむしっていた。

「萌花!」

雪乃は飛びつくように娘を抱き起こし、そのまま勢いよく優空を振り向く。

「さっきのハンバーガー、エビ入ってたの!?」

優空がその場で固まる。

「……入ってた。晴美が、萌花が食べたがってるって……」

「今野優空!」

雪乃の声が裂ける。

「萌花はエビアレルギーでしょ! 3歳のとき、間違って食べて救急搬送された! 次に起きたら喉頭浮腫で窒息するかもしれないって、医者に言われたの! 父親として何やってるの!?」

優空の瞳孔が、きゅっと縮む。

萌花の食事制限も、アレルギーの一覧も、薬も――ずっと雪乃が管理してきた。

彼が覚えているのは「胃が弱い」くらいで、何が禁忌かなんて頭に残っていない。

「救急車、呼ぶ」

優空は慌ててスマホを取り出した。

雪乃は棚をひっかき回し、抗アレルギー薬と吸入スプレーを引っ張り出す。片膝をつき、錠剤を萌花の口に押し込む――けれど、萌花はもう飲み込めない。

焦りで涙がぼろぼろ落ちた。

雪乃は錠剤を自分の口に含んで溶かし、身を屈めて萌花へ口移しする。

苦い薬が涙と混ざり、子どもの喉へと流れ込んだ。

続けて喘息用のスプレーを口元へ当て、押し込む。

「萌花、息して! ママを見て、息して!」

萌花のまぶたがかすかに開き、掠れた声が漏れる。

「ま……ま……くるしい……」

「分かってる、分かってる……」

雪乃は震えながら娘を抱きしめた。

「救急車、すぐ来るから……すぐ楽になるから……っ」

優空は通話を切り、抱き合う母娘を見下ろす。

腕がだらりと垂れ、拳を握ってはほどく。掌は冷や汗でぐっしょりだった。

やがて、サイレンが遠くから近づいてくる。

雪乃は毛布で萌花を包み、そのまま救急隊員に続いて搬送車へ乗り込んだ。

病院に着くなり、医師がすぐにアドレナリンを投与する。腫れがようやく引いた。

「急性アレルギー反応による喉頭浮腫です。対応が早くてよかった。あと数分遅ければ命を落としていました」

医師はマスクを外し、二人をきつく見据える。

「親御さん、何をしてるんです。子どもがエビにアレルギーだと、なぜ把握していない?」

優空は薄い唇を噛み、何も言わなかった。

雪乃は、それどころじゃない。

萌花が助かったと分かった瞬間、糸が切れたみたいに椅子へ崩れ落ちた。

高熱、移動、恐怖。

遅れて反動が襲い、視界がぐらぐら暗くなる。胃がひっくり返りそうで、吐き気がこみ上げた。

「会計、俺が行く」

優空は雪乃を一度だけ見て、背を向けた。

雪乃は椅子にもたれ、目を閉じる。

頭は鉛みたいに重いのに、身体だけ妙に軽かった。

――もしさっき萌花に何かあったら。

たぶん、自分も一緒に死んでいた。

萌花を置いて帰れず、寝息を確認してから一度家へ戻り、栄養食を作った。

再び病院へ戻ったころには、夜10時を回っていた。

病室のドアに手をかけた、そのとき。中から萌花の声が聞こえた。起きている。弱々しい声に、期待が混じっている。

「晴美おばさん、今日はママがいてくれたから……でも、やっぱりおばさんに来てほしい」

ドアの隙間から覗くと、萌花はスマホを握っていた。スピーカー通話。

受話口の向こうで、中島晴美のやわらかな声が弾む。

「もちろん行きたいけど……あなたのママがいるなら、私が行くのはちょっと……ね」

「どうしてぇ?」萌花が頬をぷうっと膨らませる。「私、きれいなおばさんのほうが好き。ママはいつも私のことばっかり管理して、うるさいんだもん。もう、ほんと嫌!」

雪乃は反射的に弁当箱を握りしめた。指先が痛い。

唇から、すっと血の気が引く。

「そんなふうに言っちゃだめよ」

晴美はそう言いながら、叱っているようには聞こえない。

「ママもあなたのためなの」

「違うもん」萌花は小さくぶつぶつ言う。「晴美おばさん、知ってる? パパもおばさんのほうが好きだよ。前に遊園地に行ったとき、パパがおばさんを見る目、すっごくやさしかった。ママには一回もあんな顔しない」

「それにね、前におばさんにあげたひまわりの花束。ママにはその中でいちばんブサイクなの、一本だけあげたの。ママ、それだけでめちゃくちゃ喜んでた。ウケるよね?」

電話の向こうで、晴美がくすっと笑った。

「萌花、賢いわね」

雪乃はドアの外で、身体が凍りついた。

血が、冷えていく。

一週間前。萌花は折り紙の花をくれた。

――少しは関係が良くなるのかもしれない。そう思った。

まさか、あれが「花束の中でいちばんどうでもいい一本」だったなんて。

痛い、なんて言葉じゃ足りない。

胸に無数の穴が開いて、冷たい血がどくどく流れ出すみたいだった。

十月十日、身を削って産んだ子。

出血で半分死にかけながら産んだ子が、これか。

雪乃は震える指先を押さえ、喉の奥にせり上がる鉄の味を、何度も飲み込む。

――そして、ゆっくりドアを開けた。

萌花はびくっとして、慌てて通話を切り、スマホを枕の下へ隠す。

「ママ……」

雪乃は近づき、布団の端を整える。

「萌花」

笑おうとして、頬がひきつった。

「そんなに晴美おばさんが好き?」

萌花は迷って、それからこくりと頷く。

「うん。かわいいし、やさしいし、怒らないし。工作も一緒にしてくれるし、おいしいもの食べに連れてってくれるし……」

言えば言うほど、目がきらきらしていく。

「ママ、私、ずっときれいなおばさんと一緒にいたいのに……」

声がすとんと落ちた。

「でも、あと3か月なんだよね」

その純粋な「好き」と「残念」が、雪乃の胸に残っていた最後の抵抗を溶かした。

「うん。分かった」

雪乃は娘の頬を撫で、微笑む。

「大丈夫。残り3か月、みんな楽しく過ごせるよ」

萌花は言葉の裏を読み取れず、励まされたと思ったのか素直に頷いた。

「うん!」

雪乃は立ち上がる。

「ちゃんと休んで。ママ、ちょっと出てくるね」

「どこ行くの?」

「取りに行くものがあるの」

振り返らずに、病室を出た。

向かったのは別荘ではなく、親友の加藤莉々の家だった。

ドアを開けた莉々が目を丸くする。

「雪乃? 顔色どうしたの、それ……」

雪乃は口元だけ動かした。

「熱。大丈夫」

部屋に入ると、莉々は熱い湯を出し、体温計を押しつける。

39度8分。

「バカじゃないの!? こんな熱で病院行かないで、なんでうちに来るの!」

「病院なら、さっきまでいた」

湯呑みを両手で包み、雪乃は静かに言った。

「莉々、離婚する」

莉々が言葉を失う。

雪乃は今夜の出来事を、淡々と話した。

聞き終えた莉々の顔色が、怒りで真っ白になる。

「今野優空、頭に穴でも空いてんの!? それに中島晴美。どう見ても計算高い女でしょ。余命3か月? 同情買ってるだけじゃん! 萌花だってまだ子どもなんだよ、あの父娘に乗せられてるだけ!」

怒りが止まらない。

「雪乃、もっと早く離れるべきだった! この5年、どんな生活してきたと思ってんの。生き別れのほうがマシだわ!」

雪乃は笑った。目は空っぽのまま。

「うん。もっと早く、離れるべきだった」

莉々が手を握る。

「離婚したら、どうするの? これから」

雪乃の目が、少しずつ澄んでいく。

「仕事に戻りたい。ヴァイオリン、作曲、教えるのでも……何でもいい」

莉々の目がぱっと明るくなる。何か思い出したように部屋へ走り、黄ばんだ楽譜の束を抱えて戻ってきた。

それをローテーブルに、どんと置く。

「これ、全部あんたの。私がずっと保管してた。雪乃、取り戻しなよ!」

一番上の表紙に、タイトル『雪』。

雪乃が19歳で作った曲。全国青年作曲コンクールで金賞を取った作品だ。

莉々は宝物を数えるみたいにページをめくる。

「これ、20歳のとき。国立交響楽団に収録されたやつ」

「こっちは22歳。国際新鋭作曲賞」

「それに、この分厚い束。ここ数年、ちょこちょこ書いてたでしょ。未発表でも全部いい曲だよ!」

雪乃は楽譜に触れ、指先が震えた。

19歳の自分。表彰台の上で金賞の証書を抱え、拍手の渦の中で「十年に一人の天才」と言われた。

23歳の自分。ウィーンから届いた出演オファーに、興奮で眠れなかった夜。

今野優空に出会う前。

彼女は確かに、光っていた。

――なのに、今は。

そのとき、スマホが震えた。

優空からだ。

通話ボタンを押した瞬間、雪乃が何か言う前に、男の冷たい怒声が降ってくる。

「雪乃、お前、晴美に何を言った」

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