第3章

雪乃は固まった。「……何?」

「さっき晴美が倒れた。医者は、感情が昂ったせいだって言ってる」

スマホを握る指に力が入る。――馬鹿らしい。笑えるほど。

「今野優空。私、病院を出てから真っすぐ莉々のところに来た。中島晴美の連絡先すら知らない。私が何を言えるの?」

「お前じゃなきゃ、晴美が急に取り乱す理由がない」

今野優空の声はさらに冷えた。

「今すぐ病院に来い。晴美に謝れ」

謝れ。

また、それ。

雪乃の脳裏に、いくつもの「過去」が刺さる。

晴美がうっかりプールに落ちたのは、自分が突き落としたから。

晴美のスカートにコーヒーが飛んだのは、わざとぶつかったから。

階段で晴美が転びかけたのも、自分が足を出したから。

――そう決めつけられ、毎回、今野優空はこの口調で「謝れ」と言った。

雪乃は謝ってきた。

彼が怒るのが、いちばん怖かったから。

でも今日は、もう嫌だった。

「今野優空」

雪乃は笑って言い返す。

「自分が誰だと思ってるの? あなたが謝れって言ったら、私が謝らなきゃいけないわけ?」

電話の向こうで、息を呑む気配がした。信じられない、とでも言いたげに。

「雪乃、くだらない意地を張るな。晴美はいま処置室だ。もし何かあったら――」

「何かあっても、それはあの人の体の問題でしょ。私に関係ある?」

雪乃は遮る。

「今野優空。私たち、もう離婚するの。あなたも、あなたの初恋も、私には関係ない」

そう言い切って、通話を切った。

隣で聞いていた加藤莉々が目を丸くし、しばらくしてから親指を立てる。

「やっば。最高! それ、もっと早く言ってやればよかったのに!」

雪乃はソファにもたれた。「莉々……ちょっと寝たい」

「私のベッド使いな。解熱剤持ってくる」

薬を飲み、雪乃はぐっすり眠った。

目が覚めると、外はもう暗い。

起き上がって寝室を出ると、加藤莉々がキッチンでお粥を煮ていた。

「起きた? ちょうどいい、お粥もうすぐ」

莉々が振り返る。

「さっきからスマホ、何回も鳴ってた。全部、今野優空」

雪乃は「うん」とだけ答え、スマホには手を伸ばさない。

手伝おうとした、そのとき。

インターホンが鳴った。

ドアの外に立っていたのは今野優空。顔色は沈み切り、目つきが怖いほど暗い。

「雪乃。病院に来い」

「行かない」雪乃は動かなかった。「今野優空、私たち離婚するんだから」

今野優空は有無を言わさず雪乃の手首を掴んだ。目の奥が、ひやりと濁る。

彼にとって雪乃の言葉は、ただの意地と怒り。

この家を愛している自分が、離婚などするはずがない――そう思い込んでいる。

「最後に言う。病院に来て晴美に謝れ。嫌なら、俺のやり方で連れて行く」

加藤莉々が飛び出して止めようとする。だが雪乃が腕を上げて制した。

八年愛して、五年夫婦だった男を見上げて、ふっと笑う。

「……いいよ。行く」

中島晴美が、どんな芝居を見せるつもりなのか。確かめてやる。

今野優空の車は飛ばした。

15分で病院に着く。

病室では中島晴美がベッドに横たわり、顔色は紙みたいに白かった。優空が雪乃を連れて入ると、無理に体を起こそうとする。

「優空……どうして雪乃さんまで。私、本当に大丈夫――」

「寝てろ」

今野優空は足早にベッドへ寄り、掛け布団の端を整える。

「医者が安静にしろって言っただろ」

中島晴美は目を伏せた。

「ごめんなさい……私、役に立たなくて……」

そして雪乃を見て、申し訳なさそうに言う。

「雪乃さん、ごめんなさい。私、来なくていいって言ったのに、優空がどうしてもって――」

「お前が謝る必要はない」

今野優空が遮る。

そして雪乃へ顔を向けた瞬間、視線が冷たく凍った。

「謝るのは雪乃のほうだ」

雪乃はゆっくりと病室の中へ進む。

「中島さん。私、何をしたんですか。謝らなきゃいけない理由、教えてください」

中島晴美は唇を噛んだ。

「雪乃さんが私を嫌ってるのは分かっています。でも、私はそんなつもりじゃ……ただ、さっき……あんなことを言われて……」

「へえ。私がどこで? 証拠は?」

今野優空が眉を寄せる。「雪乃、どういう態度だ」

「いつも通りだよ」

雪乃は真っ向から見返す。

「今野優空。謝れって言うなら、せめて私が何を間違えたのか言って。私が存在してるだけで初恋が傷ついたから罪? そんな理屈ある?」

今野優空の顔が一気に黒ずんだ。

「……謝らないならそれでもいい。音楽会の枠を晴美に譲れ。そうすれば、この件は終わりにしてやる」

あまりの話に、雪乃は拳を握りしめたまま、乾いた笑いが漏れた。

「いいよ。譲る」

笑みのまま、言葉だけを鋭く落とす。

「その代わり、離婚に同意して。財産の半分も渡して。今野社長、財産の半分で初恋の願いを叶えるんでしょ? 安いもんじゃない?」

今野優空が言葉を失う。

中島晴美も、息を止めたように固まった。

雪乃は、今野優空の顔に一瞬だけ走った「迷い」を見逃さない。胸の奥で冷笑が広がった。

ほら。

愛してる、何でもしてやる――口では言う。

でも、代償が必要になった瞬間、あっさり躊躇する。

結局いちばん愛しているのは、いつだって自分自身だ。

「出せないなら、最初から深情ぶらないで」

雪乃は踵を返した。

そのとき、病室の入口に小さな影が立っているのが見えた。

萌花。病衣のまま、顔色は薄く、唇も白い。

雪乃を見上げて、眉をきゅっと寄せる。

そして、甘い声で――いちばん残酷な言葉を言った。

「ママ、いつからそんなふうになっちゃったの?」

「……性格、わるいよ」

前のチャプター
次のチャプター